- あいさつ
その上に、ワインに浸したビスケットを並べて、クリームを被せる。
二度ほど同じ作業を繰り返し、容器いっぱいまで詰めると蓋をする。
次の箱には、赤いリキュールに浸したビスケットを使った。
ワインを使った箱は冷蔵庫の上段の真ん中に、他は下段に無造作に詰める。
あとは一晩、低温で寝かせれば、味が馴染んで美味しくなる。
「気に入ってくれるかしら」
クレアは浸し容器に残ったワインを指先で掬い、ぺろりと舐めた。
シチリアワインらしい、ブドウの甘みと酸味がちょうどいい塩梅だ。
シェフのワインを選ぶセンスはまずまずらしい。しかし、二代目はもう少し酸味のあるワインが好きだった。
「やっぱり、意地でも自分でワインを選べばよかったわ」
前衛的なデザインのソファに座り、クレアは相対する人物を見つめた。
フェデリコ・フェリーノ、九代目の秘蔵っ子と言われる青年だ。
突然の来訪に困惑を隠せない様子で、忙しなく指を組み替えている。
これを機に付け入るべきか、それとも警戒するべきか。
悩む男の思惑を他所に、クレアは封筒を机の上に置いた。
「来月のボンゴリアンバースディパーティの招待状よ」
「来月?九代目の誕生日は終わりましたが」
「私の誕生日よ。来月で五歳になるの」
クレアは封筒を指先で滑らせ、フェデリコの手元へ流した。封蝋に押されたボンゴレの紋章を見て、彼が表情を変える。
小娘の冗談でないと、ようやく判ったのだろう。
兄ならもっと早くに感付くのに――そう思い、クレアは溜息をついた。
「当日は参加者に狩りをしてもらおうと思っているの。狩りはお好きかしら」
「ええ、私の趣味は狩猟でしてね。当日は誰よりも立派な獲物を仕留めてみせましょう」
「そうね。晩餐を楽しみにしているわ」
それとなくヒントを混ぜ、クレアは立ち上がった。
察しの良い晴の守護者が、贈り物を車に運ぶよう指示を出す。
「申し訳ないけれど、そろそろお暇させていただくわ」
「おや、それは残念だ。もっとお話ししたかったのだけれどね」
「それは是非、次の機会に」
フェデリコに短く別れを告げて、クレア達は道を急いだ。
候補者を平等に扱うためには、同じ日に招待状を渡さなければいけない。
現在、十代目候補者は七人いる。そのうち三人は九代目の兄妹であり、妹二人は結婚時に継承権を放棄している。
残るは九代目の弟だが、彼は年齢を理由に、クレアの招待を辞退した。
代わりに、己の息子であるエンリコを紹介し、強く推した。
次女も継承権の放棄を理由に辞退し、代わりに息子のマッシーモを推した。
三女に至っては、体調不良を理由に会おうともせず、フェデリコに応対を任せた。
彼らの英断のおかげで、クレアは候補者達と面会できたのだが。
率直な感想として、ザンザスが月なら彼らはすっぽんだった。
ボスに相応しい素質を持つ者は、ザンザス以外にいなかった。
そして、誰よりもボスに相応しい彼は、ボンゴレの血を引いていない。
彼以外に候補者が居ればと思い、面倒な挨拶回りを決行したというのに。
全てが無駄足に終わった今、来月のパーティーが気鬱でならない。
「お疲れですか、お嬢様」
「ええ。でも、ようやく兄様に会えるのだもの、頑張るわ」
「そうですか……」
クレアは窓の外を見やり、彼方に見える夕立に眉を潜めた。
ナポリまで自家用ジェットで行く予定つもりだが、天候によっては遅れるかもしれない。
「アントニア、兄様の館に連絡して。少し遅れるかもしれないわ」
「ご心配なく、お嬢様。既に連絡しております」
「……?どうして?」
フェデリコの館を出て以降、アントニアはこの車の中で携帯電話を使っていない。
それ以前では、天候による遅れが出るなど判るはずもない。
なにか恐ろしい予感がして、クレアは隣に座る彼女を見上げた。
恐ろしいほど虚ろな、意志も感情も感じられない目がじっと見つめ返してくる。
「アントニア。いつ、連絡したの」
問いながら、座席の端へと身を引く。しかし、その動きが引き金となった。
アントニアはクレアの喉を掴み、リアドアにその体を叩きつけた。
「……っ」
強かに頭を打ち付け、クレアは衝撃に息を詰めた。明滅する視界の中で、アントニアの握る注射器が見える。
抵抗しようにも、幼い体は非力でままならない。喉を掴む手を外そうとしても、引っ掻くくらいしかできない。
「『姫』に何をしている、アントニア!」
後部座席の異変に気付いたニーがドリフトし、引き離そうとする。
しかし、彼女は足を踏ん張って持ちこたえ、注射器を銃に持ち替えた。
その銃口が運転席に向けられたのを見て、クレアは血相を変えた。
狭い車内に銃声と衝撃が立て続けに響いて、ガラスが砕け散る。
「ニー様!」
「大丈夫です!」
咄嗟にドアを開けて外に出たらしい、声は車外から聞こえる。
その方向に向けて、アントニアがまた銃を撃つ。ガラスが砕け散り、耳障りな音を立ててシートに降り注ぐ。
彼女の意識がニーに向いている隙にと、クレアは『箱』の炎を出した。
この炎に攻撃する能力はないが、彼女を封じ込めれることはできる。
しかし、黒い炎に気付いた彼女は銃を捨て、再び注射を手にした。
迫る針先から逃れようと暴れても、喉を抑える手はびくともしない。
「止めて!どうして、貴女が、こんなことを」
問う声は届かず、針先が首筋に突き刺さる感覚が襲う。麻酔薬だろう、すぐに意識が霞み始める。
クレアは意識と共に消えゆく炎を見ながら、ポシェットに手を伸ばした。
肩に引っ掛けていたそれを掴み、割れた窓の外へ放り投げる。
「とどけ、て……兄様、の、しょうたい、じょう……!」
今日中に、何としても、彼の名誉の為に。
精いっぱい声を張り上げ、車外にいるだろうニーにそう伝えて、クレアは意識を失った。