- 膝を突き合わせて
何をする気にもなれず、昼も夜もごろごろして時間を潰す。
喉が渇くから水は飲むけれど、固形のものを咀嚼するのは億劫だった。
ベッドで横になっても眠れず、ソファで転寝をしては飛び起きる。
気を紛らわそうと湯を浴びても、気分は少しも晴れない。
そういう時は思い切って、積極的に問題に取り掛かった方が良いのは判る。
そして、問題を解決するためには、九代目を問い質し、今後について話し合うしかない。
そのためには一対一で話せる場が必要だ。しかし、九代目には常に守護者が付いている。
白いワンピースに袖を通しながら、クレアは考えた。何かきっかけがあればいいのに、と。
表廊下に面した扉がノックされたのは、ちょうどそんな時だった。
『姫』の部屋の前に至り、九代目は恐る恐るノックした。
「儂じゃ。話があるんじゃが、入れてくれんか」
ほんの少しの沈黙をおいて、扉の向こうからノックが返される。
「二人で話し合いたいの。……いま、一人?」
「ああ。嵐も晴も置いてきた、一人じゃ」
そう答えれば、やはり少しの間をおいて解錠される音がした。
恐る恐るドアノブを回せば、扉はあっさりと開いた。
刺激せぬようにゆっくりと部屋に入ると、彼女はソファの上に座っていた。
その面差しが数日会わぬうちにやつれたように見え、九代目は眉を下げた。
自分の言葉が彼女を追い詰めたのだと思うと、どうにも辛かった。
「引き籠ったりして、ごめんなさい。ちょっと拗ねていたの」
思いのほかあっさりとした謝罪に、九代目は目を瞠った。
彼女は思い悩み、そして自らの感情を押し殺す事で謝罪したのだ。
九代目は頭を振り、クレアの隣に座った。
「クレア。わしこそ酷いことを言った。すまなかった」
「いいえ。貴方は正しかった、謝る必要なんてないわ」
「いいや。娘に対して言う言葉ではなかった。許してくれ、クレア」
クレアの小さな手を握り、九代目はそっと微笑みかけた。小さな小さな娘。
かつて姉だった時から、その体は小さかった。
双肩にかかる重責に、彼女は多くのものを諦めただろう。周囲から理解される事も、その一つなのかもしれない。
しかし、九代目は彼女に何も諦めてほしくないと思う。
全てを与える事は無理でも、せめて自らが示す理解だけは拒まないでほしいと願う。
願うからこそ、――彼女の謝罪を受け入れるわけにはいかない。
「クレア。ボスである以上、わしは全てを許してやることはできん」
「わかっているわ。だから、もう我儘も……」
「しかし」
クレアの言葉を遮り、九代目は努めて優しげに微笑みかけた。
「しかし、許せる範囲でならば、許可しよう」
「……っ」
「我儘を言ってくれ。一つ一つ、検討しよう」
娘の手を取り、九代目は両手で包みこんだ。年相応に温かい手は、心中の動揺を表すように震えている。
「本当に、我儘を言ってもいいの」
少しばかり猜疑心を含んだ声で問われ、九代目は深く頷いた。
すると、クレアは困ったように笑い、もう片方の手を九代目の手に添えた。
その手に包帯が雑に巻かれているのに気付き、九代目は内心疑問を覚えた。
室内に居たのに、いったい何処で怪我をしたのだろうかと。
「兄様にまた会いたい。お話がしたいわ」
「ああ。本部に呼ぼう」
「一緒にご飯を食べて、シエスタするの。一緒に散歩もしたいわ、お庭を歩くの」
次から次へと、些細な願いが並べ立てられる。どれも、家族ならば当たり前にすることばかりだ。
九代目は目元を和ませながら、一つ一つに相槌を打った。
そうして願いが二十を超えたところで、クレアはにっこりと笑った。
「春には庭を散歩して、夏には涼しい日影で昼寝をして、秋は一緒に食事して、冬は一緒に焚火を見るの。たくさん、兄様との思い出を作るために」
「ああ」
「それでね、……それでもね、兄様を後継者に選ばないの。それでも、許してくれる」
どこか挑戦的に笑ったまま、クレアはそう問いかけた。
九代目のまとう空気が瞬時に凍りつき、好々爺とした笑みが厳しいものに変わる。
「ごめんなさい。日記を読んだの。悪いのは、わかっていたのだけど」
少しも悪びれていない謝罪に、九代目は深い溜息をついた。
軽く頭を振って、また溜息を吐き、漸く落ち着いた。
「……いや。『姫』には知る権利がある。謝ることではなかろう」
「そうね。でも、日記を覗かれていい思いはしないでしょう」
微笑んだまま、クレアは目を伏せた。
ザンザスとしたいことは山ほどある。しかし、共に過ごせば過ごすほど、後継者を選定した日に彼に与える傷は深くなる。
それを承知で彼と共に過ごすことを、九代目は許すだろうか。それとも、いたずらに傷を深くするなと言うだろうか。
視線を合わせぬまま、クレアは九代目の答えを待った。 沈黙は思いのほか長く、九代目の逡巡が大きいことが察せられる。
そして、ゆうに二十分は経った頃、九代目は話し始めた。クレアが思ってもいなかった、切り口から。
「……クレア。わしは君の嘘を一つ知っている。昔、なぜ姉はああも意地悪なのかと母に訊いたことがあって、な」