渇感
この胸の中に、渇求がある。貧民街に居た時から――物心ついたときから、その渇きはあった。何が足りないのか、何を手にすれば消えるのか、ザンザスには分からない。貧民街には何もなくて、それが当たり前だった。

その渇きは時に、不愉快にも惨めな現状を思い知らせた。その度、ザンザスは激しく苛立ち、何もかもを破壊したい衝動に駆られた。
金持ち連中が持っている全てがあれば、こんな屈辱的な人生を強いられなければと。

だから、九代目に引き取られた時、この渇求が満たされるだろうと期待した。実際、そこには夢に見た何もかもが当たり前のようにあった。
しかし、何を手にしても、ザンザスは満足できなかった。ブランド物のスーツを着ても、上等の肉を食べても、城のような邸宅に身を置いても。

物質的に満たされても、まだ足りない。マフィオーゾに必要な知識と技量を身につけたが、それでもまだ足りない。
渇きは時を経るごとに深く、世界を濁らせるほどに強くなる。

所詮は焼け石に水ということだろうか。ひび割れた大地に雨が降っても、まったく潤わないように。雨ではなく、海ならば潤うだろうか。
ボスの息子として得たもので不十分ならば、ボスとして得られるものならば。

最高のマフィアに。真の男に。冷酷に、残酷に、そして最強に――初代のように強く、二代目のように無慈悲に。頭を垂れるカスどもには慈悲をくれてやり、逆らう者には容赦ない制裁を。
ボスとして相応しい人間になれるよう、努力した。

それが報われるのだと、信じていた。一度は父と敬い、その惰弱さを知ってからは軽蔑するようになった人を。
信じていた――家族だろうと所詮は他人だと、思っていたのに。心のどこかで、手放しに信じていた。

未熟な、甘ったれた考えだ。そんなものが自分の中にあったことに、ザンザスは愕然とした。



「馬鹿な」

日記を読み終え、ザンザスは愕然とした。何度も読み返し、その度にそれがただ一つの真実であることを確認する。その度に、からからに乾いた胸の奥が深くひび割れてゆく。真っ黒な血を吹き出して、それでもなお渇いてやまぬ心の中で。

ザンザスは目眩を覚え、机に手をついた。そうしなければ、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。ざあざあと耳の奥で木霊する絶望に屈したくはなかった。
今ここで絶望したら、これまで積み上げてきた全てまで崩れてしまう。

日々の研鑽と実績、それによって培った矜持。ザンザスの中には、マフィオーゾに必要なものしかないのに。そう在れと仕向けたのは、他でもない九代目なのに。
ザンザスは日記から視線を上げ、机の上に並べられた写真立てを見た。

赤ん坊を抱えた八代目の写真、十歳くらいの子供達が並んで笑っている写真。九代目の弟妹達の家族写真。その隣に、ザンザスの知らない女性の写真があった。
彼女は椅子に腰かけ、傍に立つ青年を見上げて笑っていた。彼女の視線を受けて、照れくさそうに笑うその顔は、間違いなく若かりし頃の九代目だ。

ザンザスの写真も、母の写真もない。これが九代目の本心なのだ。
震えるばかりの両手を振り上げ、日記と共に机の上のものを叩き落とす。エッセーの原稿が床に散らばり、テーブルランプや写真立てが儚い音を立てて割れる。

「このオレが!カスどもよりも劣るだと!」

臓腑から突き上げるような激昂のまま、ザンザスは叫んだ。爆ぜた憤怒はもはや体内に収まりきらず、やり場のないそれは両の掌から溢れる。

「あの、老いぼれ、……っ」

ボスになるために、ザンザスは血の滲むような努力を重ねてきた。辛い思いも、惨めな思いもたくさんした。その対価がこれでは、あんまりではないか。
掴めるはずだった未来の輝きは、大人の汚い嘘でしかなかった。

「奴はオレを後継者にするつもりなどなかったんだ!何が息子だ!」

十代目の椅子、九代目の嫡子としての輝かしい未来。掌中に在ると信じていたそれは、九代目が見せた幻でしかなかった。
日記の記述を見るに、彼は優しくしたつもりなのだろう。一点の曇りもない目を、無垢な手を振り払えなかったと。

しかし、それが優しさであるはずがない。ジグソーパズルのピースを少しずつ与えて、完成間際で全てを取り上げるような行いが、優しさなものか。
パズルが完成する時を夢見て、懸命に努力してきた人を嘲笑うような行為が。

「オレを裏切りやがったんだ!!」

あの時は言い出せなかったとしても、その後には幾らでも言う機会はあったはずだ。それなのに、ザンザスが暴くまで、九代目はおくびにも出さなかった。
もっと早くに言ってくれれば、――もっと幼い内に言ってくれれば。

ブラッド・オブ・ボンゴレなくしては、後継者としては認められない。たった一つの掟はいまや未来を閉ざす堅牢な扉と化し、ザンザスの前に冷たく立ちはだかっている。
覆しようのない絶望の断崖を前に、咆哮はあまりに虚しく響く。

ザンザスは肩で息をしながら、荒れ狂っていた憤怒が焼けた鉄のような憎悪に変わるのを感じた。狼男の心臓を破壊するのが銀の弾丸なら、それは九代目の心臓を目指している。
侮辱を許してはならない。顔に泥を塗られたなら、相手の血を以てそれを雪がねばならない。

胸の中の渇きは今、かつて父と慕った老いぼれの血を求めている。決意は容易く、ザンザスは上体を起こし、震える足で歩き出した。
ガラスを踏み砕いた音がして、足元を見ると、写真立ての一つを踏んでいた。

九代目の妻が靴の下で笑っている。愛などという気色の悪いものを信じて、満ち足りた笑みを浮かべている。
ザンザスは舌打ちし、踏み躙ったそれを部屋の隅へ蹴り飛ばした。



明け方、九代目は『嵐』に起こされて私書室に駆けつけ、荒らされた室内を呆然と見渡した。戸棚には物色された形跡があり、机の上のものは全て床に叩き落とされている。
ベネチアで作らせたテーブルランプは粉々、ちまちま書き溜めていた原稿にはインクの文様がべったり付いている。

「一体これはどうしたんじゃ。猫でも入り込んだのか」
「猫ならいいがな。警備が殺されている」
「……そうか。ならば、狙いはやはり」

眠たがる目をこすりながら、九代目は机へと歩み寄った。写真立てが堕ちているのを拾い上げ、割れたガラスの破片をそっと取り除く。
母の写真と、幼い時に兄弟と撮った写真。弟妹の家族写真を一つ一つ拾い、写真に傷がないか確かめ、机の上に置く。

「む?一つ足りんな」
「あれじゃないか」

『嵐』は部屋の隅に行き、粉々に砕けた写真立てを拾った。九代目が結婚した日に撮った、夫婦が幸せそうに笑っている写真だ。
汚い靴で踏まれたのだろう、泥汚れの中に靴跡がくっきりと残っている。

「ひどいな、これは。新しく焼き増しした方がいい」
「うむ……年月までは同じようにはならんが、仕方あるまい」

泥を払い落し、九代目は溜息をついた。フィルムがあれば、何枚でも同じ写真を焼き増しできる。しかし、時間を経て褪せた色合いまでは、同じにできない。
妻の生きていた頃に印刷し、今まで九代目と同じ時間を過ごした写真にはなれない。

落ちていた物の中から日記を拾い上げ、九代目は悄然として哀憐の色を浮かべた。踏み躙られた写真と日記の存在から、超直感は一つの真実を導き出した。
ここに来たのはザンザスだと。

「あの子は、知ってしまったらしい」
「……そうか。俺達は間に合わなかったわけだ」

ここに来るのは、ザンザスの秘密を探っている不届き者だと思っていた。証拠となる日記を確保しなければ、彼を後継者争いから蹴落とせないからだ。
しかし、その者の狙いは九代目と仲違いさせることだったのだ。でなければ、このタイミングで争いの火種を熾すはずがない。

「ここ一連の争乱と同じか?」
「わからんな。そもそも、誰がこれを目論んだのやら」

激しやすいザンザスのことだ。秘密を知ったからには、早晩反旗を翻すに違いない。そして、九代目はボスとして、逆らうものを断罪しなければならない。
血は繋がらずとも、息子として愛してきた我が子を、殺さねばならない。

「参ったな。クレアと約束したというのに、叶えてやれそうにない」

いつか、あの日の欺瞞が白日の下に晒される時まで。兄妹の時間を、――二度と得られぬ思い出を作る時間を、できる限り与えようと約束したというのに。
秘密は既に彼の知るところとなり、決別の日は遥か遠くの未来ではなく、今日明日も知れぬほど近いものとなった。

「嘆いても何も始まらん。これからどうする?」

感傷に浸ることを許さぬ『嵐』の言葉に、九代目は頷いた。争いを避けられないのなら、いかに被害を抑えるかが肝になる。
クレアが寄越した書を思い起こし、九代目はようやく得心がいった。彼女はこれを懸念し、奥義を授けようとしたのだ――ザンザスを死なせないために。

「奥義を習得しよう。記録の通りならば、あの子を止められるはずだ」
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