冬晴れの朝
――ボンゴリアン・バースデーパーティの数日前、冬将軍の加護厚き極寒の地。
彼は墓場に立ち、雪に閉ざされた愛すべき領地を見渡した。風の足跡の残る白銀の大地に、薄のように白ぼけた木立の群れ。村には仄かに、街灯と家々の明かりが灯っている。オレンジ色の光はとても温かそうで、領民たちの健やかな生活を彼に想像させた。
決して手に入れられない温かさが、そこに赤々と輝いている。彼は一人、寒々しい墓場に立って、それを眺めている。その構図はまさに、彼のこれまでであり、これから先の人生でもあった。倫理に反する衝動を受け継いだために、彼の一族はそう生きることを強いられてきた。

遺伝子に殺人衝動が組み込まれているのだろう、彼の一族に生まれた者はみな、生まれついての殺人鬼だった。理性や倫理観とは別のところに、人を殺さずにはいられない衝動があった。それはとても強い衝動で、薬や電気で抑えられるようなものではなかった。
彼は自分の異常性を自覚してすぐ、治療を求めて世界中を放浪した。財はありあまるほどあったが、治療法はそれを使い尽くせるほど多くはなかった。そして、自らの在り方に絶望し、打ちひしがれてこの墓場に戻った――先祖の誰もがそうだったように。

彼は震える手で懐をまさぐり、手紙を取り出した。差出人の名前を見つめ、やはり間違いないことを確かめた。その人は一族の盟主であり、聖母マリアであり、この世に一つしかないランタンである。異端の性を定められたものにとって、彼女はもはや伝説に等しかった。
幼いころから、彼はその人に会う日を夢見ていた。部下が彼女を棺に納め、この永久凍土へ運んでくる日を。命を無くした彼女はきっと、誰よりも美しいだろう。彼を拒絶しないし、否定もしない。目を閉じ、ほほ笑みを浮かべ、彼のエンバーミングを快く受け入れてくれる。

その人が、会いたいと言ってきた。死ぬ前ではなく、生きている間に。力を借りたいと――このロシアの墓堀職人、ギーグファミリーのボスに。ギーグのボスは、初代以外は誰も、生きている彼女に会っていない。会いたいと望み、しかし同時に強く恐れ、会いに行けぬまま月日を重ねた。そして、死した彼女とのみ面会し、安堵しながらも意気地のない自分を責めた。
彼もまた、彼女に会うことを切望しながら、動けずにいた。彼女がこの世に戻ったことは知っているが、今日までどうしても勇気が湧かなかった。会いに行きたいが、同時にとても恐ろしいのだ。罪深く生まれつき、自制心が足らぬばかりに罪を重ねる自分を見せること。そして、自分を見た彼女の目に現れる反応が、どんな――拒絶か、否定か、それとも伝え聞いた通りの親愛か――ものなのか。

遠くにあると信じていた明かりが、実はただの幻だったと知ったとき。暗闇はその深度を深め、孤独はより一層黒く染まることだろう。彼女を殺して、自分を殺してしまいたくなるほどの絶望――それが怖くて、先祖たちは会いに行けなかった。
しかし、彼は行かなければならない。忠誠は揺ぎないものでなければならないからだ。忠義は彼らの一族を人の側に留める枷であり、唯一の誇りでもある。それを手放すのは、真実を確かめることの次に恐ろしい。

曇天からはらはらと落つ雪に気づき、彼は慎重に手紙を仕舞い込んだ。内ポケットのあたりを撫で、その頼りない紙片に勇気をもらう。彼は坂道を下り、墓地の外に待たせておいた車に乗り込んだ。温かい空気に居心地の悪さを感じつつ、彼は喉の奥からなんとか声を絞り出した。

「空港へ」



目覚まし時計がけたたましく鳴り、クレアは静思の水底から呼び戻された。朝日の温かな手のひらとは段違いに不愉快な目覚めに苛立ち、力いっぱいに叩いて止める。隣室に控えていたチェルベッロ達が、洗面器や着替えを持ってぞろぞろと現れた。

「おはようございます。御機嫌はいかがですか」
「最悪よ。慰めは兄様にお会いできることだけね」

クレアはクリップで髪をまとめ、手早く洗顔を終えた。シュミーズとコルセット、フリルをふんだんに使ったペチコートを身に付ける。さすがにパニエや胸布は付けないが、ペチコートの丈はしっかり踵までのものを選ぶ。
十八世紀の記憶をもつクレアにとって、足は絶対に隠さなければいけないものだ。今でこそ女性は惜しげもなく肌を晒すが、昔はとてもはしたなく下品なことだったからだ。街頭に立つ娼婦でさえ、胸元は開いても足は決して見せなかった。
クレアとて、今は服装の自由な時代だと頭ではわかっている。しかし、悲しいかな骨身に染み付いた貞操観念はそう簡単には拭えない。

クレアはリネンのネッカチーフで首の後ろを隠し、肘までの長さの手袋を付け、ペチコートと同じ布で作らせたガウンを羽織った。ローブ・ア・ラ・ポロネーズと呼ばれる形のガウンなので、予定の多い日にはうってつけだ。ガウンの前身頃をボタンで留め、ガウンの後ろ側を二本の紐を使っておはしょりし、襞を三つに分ける。紐を結んで大きなリボンにすれば、ドレスの着付は完成だ。
着替えが終わったため、チェルベッロがカーテンを開くと、昇り始めた朝日が部屋に差し込んだ。冬の日差しは絹で濾したように柔らかく、寝起きの目にも優しい。クレアはスツールを窓に近いところに運び、リボンを引っ掛けないよう腰掛けた。すると、チェルベッロの一人が簡単に摘めるものと紅茶を持ってきてくれる。

「髪を整えてもよろしいですか?」
「ええ、お願い」

髪型をチェルベッロに任せ、クレアはクロワッサンを齧りながら今日の予定に目を通した。開場までの間、クレアは九代目と一緒にパーティ会場で招待客を迎えることになっている。たとえ彼らの目的は九代目のご機嫌伺いであって、ただ添え物のように扱われても、この時ばかりは傍にいなければならない。
招待客が集まったら、催し物を始める。参加者は狩猟場へ案内され、参加しないものは立食形式で軽食を食べながら見物する。午後四時に終了を宣言し、一旦はお開きとする。招待客はそれぞれの部屋に帰り、午後七時からの晩餐会に備えて休憩することになっている。

「花束が届きました」
「……誰から?」
「フェデリコさまです」

クレアは予定表から顔を上げ、目を眇めた。誕生日を祝うものならば昨日までに届いており、すべて会場の飾りつけにした。当日の朝早く、わざわざ控室に宛てて花束を贈る理由など一つしかない。クレアは花束を包む淡い色合いのビニールに手を入れ、メッセージカードを取り出した。
話をしたいとだけ書かれたそれを指先で弄び、クレアは目を伏せた。どうやら彼はクレアの言動に、後継者候補の一人として物申したいことがあるらしい。特別な血筋に生まれただけの能無しが、随分と出過ぎたまねを試みるものだ。

「いかがなさいます?」
「森に朽ち寂びた教会があったでしょう。十四時にそこで会うと伝えてちょうだい」
「わかりました」
「鞍の用意もお願いね」

狩場の隅には、三十年ほど前に廃れた村がある。もともと百人ほどの小さな村だったが、今はもう人の営みの気配さえ感じられないほど自然に同化している。家屋の形をしているのは、とりわけ頑丈に作られた教会くらいだ。
パーティの会場からその村へ行くには、森の中の獣道しかない。車は森に分け入れないし、バイクや自転車はクレアの体格では乗れない。馬ならば扱いを心得ていれば子供でも乗れるし、徒歩よりは時間がかからない。幸い、狩りのための馬は数に余裕をもって用意してあるから、余った子に乗っていけばいい。

「彼をどうされるおつもりですか」

髪を結っている方のチェルベッロが、器用に髪を巻きながら問いかける。クレアは鏝の熱さに眉を寄せ、少し突き放した言い方をした。

「決まっているでしょう。それとも貴女、要らないものを後生大事に飾っておくの?」



地獄のリハビリを乗り越え、スクアーロは用意された車に乗せられてパーティ会場に来た。この日までほぼ毎日毎時間、招待状を破りたいという衝動に駆られぬ時はなかった。
結局破り捨てはしなかったが、車から降りた瞬間の衝動が一番耐えがたかったのは間違いない。
ぞろぞろ群れている招待客を見て、いかに自分が場違いな存在かをはっきりと思い知ったからだ。案内されて会場に入っても、眩いくらい豪華に着飾った人間ばかりだった。ブランド物には疎い方だが、高いか安いかくらいは見ればわかる。病院の近くで買った、量産ものの安いスーツを着た人間は自分くらいしかいない。
身形を恥ずかしいとは思わないが、悪目立ちして会話のネタにされるのは腹立たしい。その会話のほとんどが、否定的な評価とくれば尚更だ。

「ねぇ、もしかしてあの子……」
「テュールを倒したとかいう?随分と若いが……」
「嫌だわ、もう少しまともな格好で来れないのかしら。ヴァリアーはドレスコードの一つも教えないのかしら、まったく……」
「いくら腕が良くても、ねぇ」

誰に何と言われようと、スクアーロの自信が揺らぐことは無い。耐えがたいのは、怒りのままに撫で斬りにできないことだ。あと単純に、ハエ以下の弱小生物の嫉妬が耳障りで仕方がない。

「まあ、まあまあ!」
「ああ?」

聞き覚えのある忌々しいガキの声に、スクアーロは反射的に振り返って睨みつけた。よくも招待してくれたなと怒鳴りかけて、彼女の格好を見てやめた。相手は少女趣味満載の、フリルたっぷりなドレスを着たガキだ。もし怒鳴りつけたら衆目を集めること間違いなく、大人げないだの礼儀がなってないだのとヒソヒソ噂されるに違いない。

「来てくれたのね、スクアーロ!」
「テメェが招待したんだろうが。それとも何だァ、来てほしくなかったかァ?」
「いいえ、本当に嬉しいの。来てくれないかもって、思っていたから」

白い手袋を付けた手が、当たり前のようにスクアーロの手を取る。思わず払いのけると、彼女は楽しげに笑った。受付で剣を取り上げられたのに、一本きりの手を空けておこうとしたからだ。ちらりとガキを見下ろすと、ウェーブをかけた黒髪に囲われた顔が上機嫌に綻んでいる。歳を食った魔女みたいな顔ばかり見たせいか、年相応に見えると違和感が大きい。

「ねぇ、こちらに来てお話をしましょう」
「今日の主役だろ、忙しくねぇのか」
「主役?そうね、今日は私の誕生日。でも皆、パパと難しい話をするんだもの」

大人の会話をしている九代目達に一瞥をくれ、クレアはぷいっとそっぽを向いた。そして、スクアーロのひらひらした左手の袖を掴んで、テラスへ連れて行った。狩場を一望できるそこが、誕生日パーティの本会場だ。今は未だ準備中で、机やクロスを持った使用人が慌ただしく出入りしている。
彼らの邪魔にならないよう、クレア達はテラスを囲む塀の方に寄った。石積みの古い塀は所々崩れており、年月を感じさせる風合いが実に良く栄える。スクアーロはそこに立ち、寒風が吹きこんで来ないことに気付いた。風向きを計算して作ってあるらしく、冬だというのに寒さを感じない。

「冬日和で良かったわ。照っていれば、外でも寒くないでしょう」
「古くせぇ城だな。ここを会場に選んだのはテメェか?」
「ええ、そうよ。それがどうかしたの?」
「ここに風が吹かねぇって、なんで知ってんだ?」

探りを入れるいい機会だと思い、スクアーロは無造作に問いを投げてみた。子供らしからぬこのガキなら、間違いなく気付くだろう――『お前は何者だ』という問いに。予想通り、彼女はゆっくりと瞬き、子供のふりを止めた。最初からそうすると決めていたみたいに躊躇いなく、しかし決して優しくはない。

「私の何を知りたいの」

彼女の問いに、スクアーロは答えなかった。遠く遠くの梢を揺らす風音を、人工的な凪の中で聞きながら、二人は時代を遡った――あの崩れた塀がまだ、崩れていなかったころまで。

「昔、大戦よりも昔、所有者だった貴族に訊ねたの。この城には、差し押さえるだけの資産的価値はあるのかと」
「買い取ったのか」
「いいえ、借金の返済が滞ったから接収したの。私が死んだあと、セコーンドの懐に転がり込んで、今はボンゴレのものになっているけれど」

彼女が死んで、セコーンドの懐に。スクアーロはボンゴレの歴史など毛ほども興味がなく、遺産相続の手続きについてもよく知らない。彼が朧けなイメージだけで家族構成を思い描いたのを、クレアはさかさず察した。

「母ではなく、妹よ。プリーモとセコーンドの妹」
「そうか。さっき、死んだって言ったが」
「ええ。死んで、生まれて、また死んで……その繰り返し。今は九代目の娘として生まれて、死ぬまでの間を生きているところ」
「何のために?」

彼女の口角が上がり、天蓋を割る弓張り月のような笑みになる。スクアーロの目には、それは笑みではなく、ただ口元が引きつったように見えた。引き攣れた弦が限界を訴えて鳴くように、彼女の心もまた泣いている。

「リングを、正しき者に継承させるため」

後年、ザンザスがいない八年間。スクアーロは沢山の疑問と共に、この時の彼女の顔を思い出すことになる。なぜ、まだ誰に付くかも決めていなかった自分に、正体を明かしたのか。なぜ、嘘とわかる嘘をついたのか。なぜ、正しき者になどと言ったのか。なぜ、なぜ、なぜ――考え始めれば次々と疑問が連なる蔓の端を、自分に握らせたのか。
ザンザスが戻ってきて、プレゼントのリボンを解くように謎が明らかになって、スクアーロは悟る。あの日の笑みは、あの嘘は、憎悪の種だったのだと。しかし、今の彼は何も知らず、ただそうだろうなと思った。

強いられているかのような口ぶりは気にかかったが、それも無理はないと思える。スクアーロは死んだことがないから、それがどんな感覚なのかはわからない。ただ、決して快いもので無いことは、他人の最期を見ていれば想像がつく。意地悪にもどんな感覚かと訊ねてみたい衝動に駆られ、スクアーロは辛うじて言葉を飲み込んだ。クレアの背後、ちょうどテラスへ出ようとしている男に気付いたからだ。

スクアーロの目線を追って、クレアは室内の方を振り返った。ちょうどフレンチウインドウを開いた『晴』と目が合い、彼に手招かれて目を閉じた。うんざりするほど退屈なパーティの始まりだ。可愛いだけのお人形を演じるのは慣れっこだが、自由を知った今は少し気鬱になる。

「もう行かなきゃいけないみたい」
「そうみてぇだな」
「あなたのボス、見つかると良いわね」
「あんまり期待はしてねぇよ」

少し俯き、お人形のように微笑むクレアの頭を、スクアーロは無造作に撫でた。なぜそうしたのかは、自分でも分からない。分からないが、この異質で腹の立つガキを気に入り始めているのかもしれない。同じくらい神経を逆撫でされて、不愉快なのだけれど。

「ほら、行け。呼ばれてんだろ」
「ええ。また後で、お話しましょうね」

ぽんと頭を叩くと、彼女はガウンを少し手で手繰り、足早に去った。入れ替わりに全ての掃き出し窓が開かれ、招待客たちがぞろぞろとテラスへ出てくる。彼らは放たれた鵜のように散り、すぐファミリーごとに固まった。いかにも弱い者らしい振る舞いだ。自分ひとりで立っていられないのなら、こんな所に来なければ良かったのだ。

スクアーロは自分のボスになり得る者を探して、人波の中をぐるりと歩いた。どいつもこいつも、群れて固まっている。ボンゴレといえど、大した人材はいないのかもしれない。失望しかけた時、スクアーロは首筋に電流のような殺気を感じて立ち止まった。
押し殺された、されど鋭利なままの殺気。憤怒によって刃となり、憎悪によって研ぎ澄まされた意志が今、この場の誰かに向けられている。殺気に気付いた人はいないのか、周りは相変わらずパーティに浮かれている。とてもではないが、スクアーロはそんな能天気に笑ってられない。

自分に向けられたものではないのに、体の震えが止まらない。どんなに不利な戦況だろうと、こんな風に恐れたことは無い。戦う前から、勝てないと分かる――そんな存在が、この会場にいる。
視線だけを滑らせ、スクアーロは殺気の主を探した。そして、訪問客達から離た場所、柱廊の影に立つ青年を見つけた。歳の頃はそう変わらないだろう、背格好もまだ伸びしろがありそうだ。しかし、攻め入る隙のない立ち姿といい、既にマフィオーゾ――いや王者たるものの貫禄を備えている。

彼の目は赤かった。クレアが見舞いに持ってきた薔薇よりもずっと濃く、血が滴り落ちそうなほどに深い緋色だ。恐ろしいほどの憤怒と憎悪に染まった、深紅の目。スクアーロはその目に魅せられ、心を囚われた。壇上で挨拶を述べるクレアの声も、それに応える拍手も、何もかもが遠くへ去る。
赤――生の色、死の色、憤怒の色。赤色に染まった世界で、ただ彼を見ていた。
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