慮外の霧
九代目の『霧』、クロッカン・ブッシュはシチリア島南部へと愛車を走らせた。単独で行動する方が性に合っているので、部下は連れていない。
干渉されたくないので、行き先も曖昧に、南の方へ行くとしか教えていない。

自由気ままな一人旅は実に快く、山間部を夜通し走ったというのに疲れをあまり感じない。朝日は少し目に痛いが、車を降りる時に寒さが和らぐのなら悪くはない。

クロッカンはカーナビを見て、タオルミーナの町までの道を確認した。部下が掴んだ情報によると、裏社会の争乱を引き起こした人物がそこに潜伏しているらしい。

デイモン・スペード、初代の『霧』。その男はとうの昔に死んでおり、普通に考えればそこに居るはずがない。
しかし、この世には死を免れる術があることを、クロッカンは知っている。

それをデイモンが使えたかは判らないが、可能性がないわけではない。そして、彼が実在するか否かは、実力の近しい術者でなければ見極められない。
そういう事情で、守護者のクロッカンが足を運ぶことになったのだ。決して、落ち着きのない本部にいるとストレスがたまるからではない、決して。

褪せた緑の向こうに赤茶けた町の姿を見つけ、クロッカンはうっすらと笑みを浮かべた。あくせく働いている本部の連中を横目に、ゆっくり休暇を楽しむのも悪くない。
激怒した『嵐』に呼び戻されるまで、暇を満喫しよう。クロッカンはそう心に決め、アクセルを深く踏み込んだ。




「……よし、誰もいない」

小屋の周りに人がいないのを確認し、千種は溜息をついた。骸達は今、山中の小屋に身を隠している。
山籠りに必要な食料と衣類は、エストラーネオの施設から盗んだ金で買い込んである。
小屋の近くには放棄された農耕地があり、野生に帰った作物がいろいろ採れる。ブロッコリー、アーティチョーク、無花果にオレンジ、レモン……子供三人でも、山で冬を越すくらいはできるだろう。

千種は振り返り、瞑想している骸の様子を窺った。悪魔の目から情報を引き出すためには、内的世界に意識を集中させる必要があるらしい。
そのため、瞑想中はどうしても無防備になってしまう。

できれば彼の傍を離れたくないが、朝食を作るためには小屋を離れなければならない。
煙で居場所を特定されないよう、煮炊きする場所を小屋から少し離れたところに作ったからだ。

「犬、護衛を頼んでもいい?」
「任せとけってんら!」
「……本当に任せたよ」

安請負する犬に不安を覚え、千種は念押ししてから小屋を離れた。山を少し下りて、開けたところに出ると、タオルミーナの街を一望できるスポットに至る。

タオルミーナという街は、海と山の間に走る道と、山間の狭い土地に造られた複数の集落でできている。かつてギリシア人が最初に上陸した土地であり、今も当時の遺跡があちこちに残っているらしい。

千種は慎重に炭を熾し、炭火独特のじんわりと伝わる温かさに溜息をついた。ここには骸と自分と犬しかおらず、ずっとこうして暮らせるならどんなに良いだろうと思う。

勿論、それが不可能なことは判っている。金はいずれ尽きるし、服だって着れなくなる。健康でいられる保証はないし、長く滞在すればいつかは大人に見つかる。
人は自然の中では弱い生き物だから、群れなければ生きていけない。

骸は、ほとぼりが冷めたら北へ行こうと言った。シチリアにはエストラーネオの関係者の居場所はないが、本土の方は違うマフィアが支配しているから、迫害の程度が違うだろうと。
それが正しい判断かはわからないが、骸が行くというなら千種も行く――それだけのことだ。

遠望していると、鄙びた街並みに不似合いな黒い高級車が目に止まった。崩れかけた家々の間を、危なっかしげな運転で走っている。
街で成功した成金かもしれないが、マフィアの追手かもしれない。
もし追手なら、もっと山深い奥地へ逃げなければならない。千種は下りて来た斜面を駆けあがり、骸の下へ走った。

「マフィアが、町に?」
「はい。黒塗りの高級車が一台、町に入って来たので、もしかしたら」

瞑想を中断し、骸はどう動くべきか考えた。町に来た車はたった一台であり、追手というには人数が少ないようにも思える。
しかし、エストラ―ネオ討伐の指揮官、あるいは手練が少人数編成で来た可能性も否めない。

まずはただの成金かマフィアかを確認し、後者の場合は相手の戦力を把握すべきだろう。弱そうなら殺して時間を稼ぎ、住んでいた形跡を消して逃げる。強そうなら、形跡を消すよりもとにかく山奥へ逃げた方がいい。

そう考えかけて、骸は千種と犬の存在を思い出した。前世では一人で動くことが多かったせいか、人を使うという発想がなかったのだ。
自分が偵察している間に、彼らに痕跡を消させれば、とても楽だというのに。

「千種、よく見つけましたね。偉いですよ」
「あ、ありがとうございます」
「二人は今から、ここにいた痕跡を消してください。僕は偵察してきます」

にこりと笑い、骸は三叉の槍を出した。かなり訓練したおかげか、目が体に馴染んで来たのか。六道の技はまだ万全とはいかないが、槍自体は簡単に出せる。

「骸様、俺も偵察にいきたいれす」
「止めた方がいい、足手まといになるだけだから」
「なんらと、この眼鏡!コングチャンネルなら、大人の首だってへし折れるんらぞ!」
「無理だよ。相手は銃を持ってるかもしれないんだから」

犬が駆け寄って首をへし折るより、相手が銃を撃つ方が早い。千種がいくら説明しても、犬は聞き入れようとしない。
実験の影響か、彼は理屈より本能で行動するタイプだ。慎重に考えて行動したい千種とは正反対で、意見が合ったためしがない。

「西側に崩れた山小屋があったのを覚えていますね。あそこに集合しましょう」

言い争う二人の間に入り、骸はそう言った。物腰は柔らかいが、提案ではなく命令であることは二人にも分かる。おずおずと二人が頷くと、骸の輪郭がさらさらと崩れる。いつの間にか、幻覚と入れ替わっていたらしい。

「すんげぇ、骸様!全然気付かなかった!」
「感心してる場合じゃないよ、犬。早く痕跡を消さなきゃ」
「わかってる!」

千種の小言を遮り、犬は煮炊きに使っていた場所へ駆けだした。その背を見送り、千種は自分達の寝泊まりしていた小屋を振り返った。
冬の間ずっと滞在する予定だったので、住みやすいように掃除したり修理してしまっている。

これを一人で、以前の荒廃した状態に戻さなければならないのだろうか。持ち込んだ物資もかき集めて、鞄に詰めなければいけないというのに。
ここを二人で片付けてから、火を熾していた跡を隠しに行くべきだ。

「……もう、言うのもめんどい……」
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