堕天
マルトラーナ教会は、シチリアが誇る世界遺産の一つであり、宮廷附属礼拝堂と同じ、最古のビザンチン様式である金モザイクが見られる場所である。古くは一一四三年にパレルモのベッリーニ広場を見下ろす位置に作られ、シチリアの晩鐘の折には貴族がアラゴン王にシチリアの王位を依頼した事でも知られている。
レヴィが標的をこちらに連れてきている、じきに来るだろう。ルッスーリアはそう報告し、金モザイクのクーポラを見上げて嘆息した。

「私、この教会は好きになれそう。良い趣味してるじゃない」

荘厳さを感じさせる白亜の彫刻、その頭上に鮮やかな色彩をもって神の祝福を示す。それは痛苦の多い現実世界と、幸福に満ちた神の膝元との対比を成し、信仰への恭順を促さんとしている。
一方、祭壇の前に置かれた黒革の椅子は、同じくらい精緻な作りでありながら、とても現代的で無機質だ。何かを示すこともなければ、何かを人に要求することもない。それはザンザスが座る為に持ち込まれ、ただその為だけにそこに在る。

ザンザスはその椅子に腰かけ、オットマンに踵を預け、目を閉じている。まんじりともせず待ち続ける姿は椅子を取り巻く彫刻と同化し、彼の端正な容姿も相俟って高い芸術性を感じさせた。

ルッスーリアはつくづく、不思議に思う。この青年が何を考え、自分のような異端のマフィオーゾを傍に置くのか、まったく判らない。トランスジェンダーで、ゲイで、死体愛好家――保守的かつカトリックのこの国では、どれか一つでも性的な倒錯と見做される要素を、三つも持っているのだ。
マフィアは誇り高き男であり、肉体的にも精神的にも健全な男でなければならないとされている。世間の理解が広まりつつある現代でも、裏社会は依然としてルッスーリアのようなものを軽蔑し、異端として嫌う。

実際、ひょんな偶然でボンゴレの下部組織に入ったものの、ルッスーリアはどれだけ功を上げても認められることはなかった。そんな自分を、ザンザスは直属の配下に引き抜いた。他の者を勧めるボスを冷眼で黙らせ、ルッスーリアを見据えてただ一言、俺の為に働けと言った。同情でもなければ、憐憫でもない。己に仕え得るに足りると判断したが故の命令だった。

ルッスーリアは膝を折り、彼に仕えることを選んだ。ザンザスはマフィオーゾの中でも傑出していた――覇気も、才能も、自信に満ち溢れた強烈な自己も、揺らぎない在り方も、何もかもが。その彼が、その慧眼でもって自分を見出し、認めてくれたのだ。
これ以上に嬉しいことが、他にあるだろうか。たとえ、何を気に入って引き抜いてくれたのか判らなくても、彼のファミリーに属せるのならそれでいい。願わくば、不遇に苦しむ同胞に、同じ僥倖の与えられんことを。

「――来たな」

悪魔の赤い眼が見開かれ、神々しさが悪魔的な禍々しさへと変貌する。それはフレスコ画よりも遥かに絵画的な、堕天の瞬間だった。



もう歩く気力さえないほど疲れ果て、バイパーはついに教会の前に追い詰められた。右へ行こうとすれば銃弾、左に行っても後ろに行っても同じだ。目の前には、一度は命を振り絞って真剣に祈り、一度は役立たずだと言葉の限りに罵倒した神の聖域がある。
今さら、助けてくれと叫ぶのか。この地獄から救ってくれと、扉を叩くのか。こんなに惨めな気持ちになるくらいなら、いっそ死んでしまった方がマシだ。常ならば絶対にそうは思わないが、傷つきくたびれた今は捨て鉢になっているらしい。

理不尽に虐げられたことにも腹が立つし、最強の一角を占めるほどの幻術が全くの無力であることにも腹が立つ。なにか復讐する手立てはないかと考え、ふといつまでもここに立ち尽くすことを思いついた。
いっかな扉を叩かないでいたら、相手はどう出るだろう。苛立って、背後から撃ち殺すだろうか。それとも、自ら扉を開いて招き入れるのだろうか。どちらにしろ、自分が敵を動かすことができる――今までずっと相手に動かされていただけに、それは胸の空くようなアイデアだった。

「僕は動かない。何もしない。殺すなら、殺せばいいさ!」

遠くに居るだろう敵に向かって、バイパーは吠えたてた。しかし、明らかな挑発に対して、敵はまったく反応しなかった。ひょっとすると、追手は用事を終えたとばかりに帰ってしまったのかもしれない。
焦れながら待っていると、教会の扉が片側だけ開いた。やたら派手な風体の青年がひょいと顔を覗かせ、首を傾げる。何かを探すように中空を見渡し、しばらくして足元のバイパーに気付いた。

「あら、やっぱり。こんなに小さいんじゃ、扉を開けるのも大変よねぇ」

ちょっと待っててね、なんて明るく笑いながら、青年は観音開きの扉の両方を開いた。そして、左側の戸板に背を預け、バイパーに微笑みかける。まるで旧き友に接するときのように穏やかな態度に、バイパーは戸惑った。
それに、彼の身形があまりに派手なのも気に掛かる。緑色に染めたひと束以外を全て狩り上げた頭、金縁のサングラス。上背のある体にはアルマーニの黒スーツに煌びやかな羽コート。彼のような男が、古きマフィアたるボンゴレに受け入れられるとは思えない。

「いらっしゃい、アルコバレーノ。ボスがお待ちよ」
「……僕は、行かない。行ったって、殺されるだけなんだろう?」
「そうねえ、それは貴方の心がけ次第じゃないかしら」

バイパーとて、ただ殺すことだけが目的でないことくらいは察している。三日三晩もかけたのだ、何かしら別の目的が在ることは間違いない。問題は、それがただの尋問なのか、拷問なのかだ。後者なら今ここで死んだ方が遥かにマシだろう。

「死にたくなくて、ここまで頑張ったんでしょ?強情を張ったって、頑張りが無駄になるだけ。もう少し頑張りなさいな」
「ムム……ムムム……」

これ以上なにを頑張れと言うのだ。そう怒鳴り散らしてやりたいが、アルコバレーノとしてのプライドが邪魔をする。バイパーは口をへの字に曲げ、渋々――本当に渋々、教会の中に入った。青年は気を良くしたようで、口元だけ柔らかく微笑み、扉を閉めた。そして、扉のすぐ横の壁に背を預け、腕を組んで、手首だけでバイパーに歩くよう促す。

てっきり逃げ道をふさがれると思っていたので、バイパーは些か拍子抜けした。逃げざるを得ない場合、満身創痍の状態では彼を突破できないと考えていたからだ。
しかし、巡礼者の歩道を歩き終え、彼がボスと呼んだ青年を前にした時。バイパーは先ほどの心配がまったくの杞憂であることを悟った。そう、派手な形の青年など、逃亡において――青年自身が自覚していたように――問題ではない。

一番にして唯一の問題は、道の果てに待ちうける男ただ一人だ。聖職者が苦心して作り上げた神域、その全てを己が背景にしてしまうほどの強烈な存在感。人工の神聖なぞ霞んでしまうほどの、苛烈な殺気。
悪魔のごとき赤眼は冴え冴えとして鋭く、最強の名を冠するバイパーをいとも簡単に射竦める。足は縫いつけられたように動かず、声は音にならず、心臓さえ凍りつきそうな沈黙のために顔も上げられない。

バイパーは耐えきれず、その場に膝をついた。傷だらけの体はもとより、最強の矜持までもがぽっきりと折れてしまった。絶対的な上位存在を前にした時、人はただ絶望するという。バイパーはまさに、虚無にも似た絶望のなかにいた。
男は指一本動かしていない。ただその目で見ただけだ。それなのに、圧倒的な実力差をひしひしと感じさせる。何をしても逃げられない、何をしても勝てない。悔しさも怒りも、妬ましさも、何も感じない。あるのはただ絶望だけだ。

「――顔を上げろ」

視線の冷たさはそのまま、男が短く命じる。バイパーは震えながら、神を仰ぐように畏れながら見上げた。

「すべて、洗いざらい話せ」
「は、話したら、……」

話したら、助けてくれるのか。そんな問いは求められていないことに気付き、バイパーは途中で黙った。そして、訥々と――自分の悲願から、エストラ―ネオに目を付け、資金を投じて育てたことから、デイモンと手を組んだこと以外の全てを語った。
初めて会った時、デイモンから自分と関わったことを口外しないでもらいたいと言われていたからだ。もし話したら、彼は必ず口を封じに来るだろう。なにかの奇蹟でこの場を凌げても、彼を敵に回してしまっては意味がない。

クレアにしたこと、そのデータを求めて施設に入ったことを話し、バイパーは口を閉じた。男は無言で目を閉じ、そして――悪鬼もかくやと思うであろう凶悪な笑みを浮かべた。
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