間者に非ず

名前をもらった。瑜葵という名前で、その響きはとてもきれいで、好き。

名前をくれたのは、武田信玄という人。とても優しくて、あったかい手のひらのひと。

ここに住んでもいいって言ってくれた。でも、ここはどこなのだろう。

ふわふわとする頭の中でそう考えて、結論づけた。
どこでもいい、ここはあたたかいから、と。





「ともかく、瑜葵ちゃんは着替えないとね。寝間着のままだし」
「なっ、は、破廉恥でござるぞ佐助ぇぇ!」
「なんで俺様が破廉恥になるのっ!瑜葵ちゃん、ついてきて」

佐助に手招かれて、瑜葵は立ち上がった。佐助の後をついて行き、離れに向かう。

「幸村、瑜葵をどう思う」
「はっ、佐助の後を追って歩くさまは、親鳥と雛のようで大変微笑ましゅうございまがはぁあっ!」
「馬鹿者!」

信玄の拳がうなりを上げ、幸村を殴り飛ばした。
顎を殴られた幸村は、天井を突き破って上昇したあと落下し、床に倒れる。

「わしが言いたいことを察せられぬのか幸村!」
「も、申し訳ございませぬお館様……!」


幸村は呻きつつも立ち上がった。
顎が若干赤いが、ふらつくこともなく立ちあがる辺りに、人並み外れた頑丈さが伺える。


「幸村、お前はあの娘をどう見る」
「はっ、某の見立てでも、瑜葵殿は間者ではないと」

「何故そう思った、幸村よ」
「瑜葵殿は無表情ではございますが、あれは感情を押し殺したゆえの無表情ではございませぬ」

無表情には、意図して作られた無表情とそうでないものの二つがある。
意識して無表情であれば、走った感情を理性で押し隠す気配がする。

だが、自然な無表情というか、とかくその無表情であることに瑜葵の意志が感じられない。

感情を隠そうとしているのではなく、ただ人と乖離して育ち、喜怒哀楽を知らない故の乏しさに思われた。

「瑜葵殿は、どこかの深窓で、捨てられたのでは」

戦国の世では、親が子を捨てることなどは珍しくない。

庶民は口減らしをするし、武家は後継者争いを避けるために赤子を山や寺社に捨てる。

姫が捨てられる例は希だが、妾腹のため正室に疎まれたりなどして捨てられるなどありえなくはない。


「そして、瑜葵殿は、戦場で何事か辛い目に遭い、記憶を失ってしまわれたのでしょう」
「うむ。……まことに不憫な娘よ」

親に捨てられるだけでも哀れだというのに、記憶まで失ってしまっては縋るものが何もない。

「瑜葵はわしの子として、この城に置く」
「お館様……っなんとお優しき心にございましょう!某、感服いたしましてございます!」

「うむ。だが、万一のことも考えて、瑜葵には佐助をつけ、才蔵に身元を洗わせるとする」

「畏まりましてございまするお館様!才蔵、才蔵はおるか!」

才蔵ぉおおと叫ぶ幸村を見ながら、信玄は満足げに笑った。


瑜葵に薄紅色の小袖と茜色の打掛を渡すと、瑜葵はそれを手に取り、ことりと首をかしげた。


「え、もしかして、小袖の着方……わからないの?」
「……こそで?」
「……。誰か手の空いてる人いるー?」

佐助が呼ぶと、すぐさま一人の女中が走ってきた。
名を志乃といい、城に仕えて五年目の、なかなかに働き者と評判の女中だ。

「お呼びでしょうか、猿飛様」
「うん、瑜葵ちゃんに着方を教えてあげて」
「き、着方ですか?わかりました」

一瞬困惑したものの、すぐに了承して、志乃は瑜葵に向き合った。

瑜葵は、ぼんやりと無表情で、打掛をひっくり返したり広げたりして遊んでいる。

「御方様」

瑜葵は信玄の養子と知らされており、志乃は正室の子に対する呼び方をした。

だが、瑜葵はそれが自分のことだと気づかず、不思議そうに周囲を見渡す。

「瑜葵様」
「はい」

試しに名で呼んでみると、瑜葵はぱっと志乃に顔を向けた。

無表情ながら、雰囲気から喜んでいるのが察せられる。

「お着替えをしましょう、瑜葵様」

志乃がそう言うと、瑜葵はこくりと頷いた。

その様子がまたあどけなくて、志乃は知らず笑みを浮かべた。

着付けが終わると、志乃は縁側の佐助を呼んだ。

「着付けが終わりました」
「ありがと。女中頭が、志乃ちゃんはこのまま瑜葵ちゃん付きになるようにってさ」
「畏まりました」

一つ頷いて、室内に目を向ければ、瑜葵は着せてもらった小袖と打掛をまじまじと見て、嬉しそうにしている。

しばらく着物を楽しんだ後、瑜葵は志乃に目を向けた。

「……貴女の、名前は?」
「え……あ、はい、志乃と、申します」

「志乃さん……よろしく、お願いします」
「わ、私などは呼び捨てでかまいません、御方様」

御方様、と呼ばれて、瑜葵の表情にわずかに険が宿る。
意外な反応に、志乃は困惑して佐助に視線を移した。

「もしかして、名前で呼ばれたいんじゃない、瑜葵ちゃん」

佐助の言葉に、瑜葵は力強く頷いた。

おかたさま、という呼び方は、どこか余所余所しく感じる。
信玄に貰った名前で呼ばれるほうが、ずっとずっと良い。

「だってさ。御方様呼びは嫌ならしいから、名前で呼んであげて」
「わかりました」
「じゃあ、後はよろしくね」

そう言って、佐助はふっと姿を消した。


信玄の命は、間者かどうか見極めろと言うこと。
それには、近くで見るより、隠れて様子を窺う方が都合良い。

佐助は屋根裏に潜み、志乃に世話される瑜葵に視線を落とした。




翌朝、まだ日も昇っていない寅の刻に、瑜葵は起き出した。
勢いよくすぱんと襖を開くその様子に、佐助はがくっと肩を落とした。

瑜葵の行動には、最初から隠れて何かをしようという気配がまるででない。

そして、やはりというか、瑜葵は池に向かった。
昨日の行動からして何と無くそんな気はしていたが。

「ちょっと、駄目って言ってるっしょ?」

屋根裏から飛び出して腕を掴むと、瑜葵は、今目が覚めた様な顔で佐助を振り返った。

起きてすぐに池に向かうのは無意識なのか、夢遊病なのか。
とにかく学習してほしいと思い、佐助はため息をついた。

「おはようございます、佐助さん。早い、ですね」
「おはよ。忍びは早起きなの。瑜葵ちゃんも早くない?真田の旦那なんかまだ寝てるよ」

「どうしてか、目が覚めてしまって……昨日まで寝てたせい……?」

「……それはいいとして、池には入っちゃ駄目だからね!この時期の水は冷たいし、深いから溺れるよ?いくら俺様が優秀な忍ったって、安心し……」


……何言ってんの、俺様。
心中で自分にツッコミを入れ、佐助は黙った。

不自然な途切れ方に何の違和感も感じず、瑜葵は至極真面目に頷いた。

「わかりました。助けてくれて、ありがとうございます」

「わ、わかればいいんだけど。じゃ、俺様旦那を起こしに行くから、大人しくしてること。いいね?」

「はい!」

よしいい返事、と瑜葵の頭を撫でて、佐助はその場を離れた。
心の片隅で、もう任務どうでもいいんじゃねとかいう声がしたが、優秀な忍らしく握りつぶす。

幸村を起こしに行って(他の忍では全然起きないから)帰ってみると、ずぶ濡れの瑜葵が、池の傍らにいた。


「だから池に入っちゃ駄目って言ったでしょーが!!何やってんのもう!」

「す、すみません。鯉が泳いでいて、覗いたら、足が滑って……」

「もう!誰か湯沸かして!瑜葵ちゃんが池に落ちた!」
「はい、ただちに!」

佐助の声を聞き付け、朝食を持ってきた志乃が慌てて湯殿に向かう。

「っくしゅ」
「ああほら言わんこっちゃない!早く湯沸かして!」

手拭いで瑜葵の髪を拭いながら、佐助は焦って声を張り上げた。
湯殿からはただちにー!という返事が返ってくる。

「風邪引いたらどうすんのっ全く!」
「すみません……」
「俺様が近くにいないときに、池に近づいちゃだめだからね。わかった?」
「はい、わかりました」

支度ができたと知らせに来た志乃に瑜葵を任せ、佐助はため息をついた。




瑜葵は湯殿から出た後、小袖を着付けられ、部屋に戻ろうと廊下に出た。
――そして、佐助が探しに来るまで、延々と同じ廊下を迷った。

「御飯できてるよ、瑜葵ちゃん」

膳を手に手招きすると、瑜葵は頬を緩めつつ佐助に近寄った。
――瞬間。

「……あ」
「瑜葵ちゃん!?」

瑜葵が、打掛の裾を踏んで勢いよく転んだ。
それも、受け身など一切とらずビタン!と音が鳴るくらい勢いよく転んだ。

咄嗟に腰を上げた佐助は、深く溜息をついて瑜葵に近寄った。
手をとって起こすと、鼻の頭が擦り剥けて赤くなっている。

「うん、絶対間者じゃないわ……」

そう結論付けて、佐助は擦り傷用の軟膏をとりだした。


(ほら痛くない痛くない泣かないのー)(……子守か、佐助)(あ、旦那おはよ)

あとがき

一応戦国だし、カタカナはできる限り使いたくないんだけど。
びたん!よりビタン!の方が痛そうっていう。
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