空っぽの過去

庭から母屋に場所を移動し、三対一で向き合う。

女子はぼんやりとした無表情で、敵意や隔意などはまるで感じられない。
不安も特になく、ただ漫然とそこにあるような風体だ。


「自分が誰なのかわからないのか……じゃあ、家族とかは?住んでいた場所とかは覚えてる?」
「……かぞく?」

女子は、小首を傾げながら、奇妙な抑揚をつけて言った。
まるでその言葉を生れて初めて聞いたかのような反応に、佐助は目を眇めた。

「……せめて、名前だけでもわかんない?」
「名前……わかりません」

縋るように言った言葉もあっさり無に帰し、佐助はもろ手を挙げた。
佐助が降参したかわり、幸村がずいと進み出る。


「では、この甲斐を治めておられるお館様、武田信玄の名に聞き覚えはござらぬか?」
「たけだ、しんげん……?」

「そうでござる。甲斐の虎という言葉はどうでござるか?」
「かいの虎、ですか……」


尻窄まりに小さくなっていく彼女の声は、知らないと物語っていた。

しかし、日ノ本、それも東国にあって、甲斐の虎と言って知らない者はいない。


「ううむ……お館様を知らぬなどあり得ぬ!」
「さっきの行動も意味不明だしねぇ。そもそも、何で戦場などに居たの?」

問われ、女子は記憶を手繰った。
必死に思いだそうとするが、何も浮かばない。

「……わかりません……ただ、ずっと逃げていた様に思うのです」
「逃げていた、とな?」

ぼんやりとした瞳に、わずかに困惑が滲む。
何から、何故、逃げていたのかが、まるで思い出せない。

「……何かが、あって……とても悲しい思いをした様な気がするのです。何があったのかは、全然、わからない、のですけど……」


佐助と幸村が顔を見合わせ、ため息をついた。
わからないとしか答えられない者に説明を求めるのは無駄なことだ。

幸村の降参を見てとり、代わりに信玄が最も気になることを訊ねた。


「お主が佐助の傷を治したと聞いたのだが、本当かの?」
「………?傷、治した……?」

女子は、かくん、と首を傾げた。その様子を見て、佐助はくないを一本取り出し、己が手に刺した。

「!?」

吹き出る血を見て、女子は真っ青になる。
だが、佐助はうめき声一つあげず、平然としてくないを抜いた。傷口が広がり、夥しい血が床に落ちる。


「佐助!何をしておるのだ!」
「見りゃわかるっしょ?実践実践」
「だが、しかし……!」
「まあ、ちょっと手かざしてみてよ」

佐助はにっこりと笑って、女子に傷を差し出した。
女子は流れ出る血に震えつつも、促されるままに手をかざした。

その細い手に白い燐光が宿り、傷を包み込む。
燐光が消えると、佐助の手には傷など一つも見当たらなくなっていた。

「真でごさったか……!凄いでござる、いったいどんな技なのでござるか!?」
「え、あ、よく、わからなくて……」
「凄いでござる!お館様!」

「うむ。素性もわけもわからぬが、お主は珍しい術を持っておる。行くあてがないなら、武田に仕えぬか」

行くあてはない。だが、『武田に仕える』というのはどういう意味なのか、女子にはわからなかった。

「つまり、ここに住んだらどうってこと」

その疑問を察して、佐助が助け船を出した。
意味合いは違うが、信玄も幸村も訂正しようとはしなかった。

女子は、なんとなくではあるが此処にいるのが良いような気がして、頷いた。

「ここに、住みます」
「うむ!では、名前を決めねばならんな。なければどう呼べばよいかわからぬ」
「名前……」


茫然と繰り返した女子の頭を、信玄はそっと撫でた。
その優しく宥めるような手つきに、女子の無表情がほんのわずかに和らぐ。

「ふむ……瑜葵というのはどうかの?」
「瑜葵、……瑜葵、瑜葵」

とても優しい響きの名前だ。
口に出してみて、ほんのりと温かくなった気がして、女子――瑜葵は何度も繰り返した。

その、まるで新しいおもちゃを貰った子供のような反応に、三人は苦笑を浮かべた。

「うむ。今日からお主は、瑜葵じゃ」
「ようこそ武田へ!某は真田源次郎幸村でござる!で、あれが猿飛佐助にござるよ」

「ちょ、普通に忍びの名前教えちゃっていいの!?」


記憶喪失の女子、もとい瑜葵は、この日から甲斐の武田に身を寄せる事になった。



(瑜葵、瑜葵)(大将、すっごい喜んでもらえてますよ)(うむ、是非もなしじゃ)(どこの魔王?!)

あとがき

ツッコミ入れる佐助がすき。オカンな佐助が好きだ。
あといたずら好きなお館様が好きだ。
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