- 小田原に知らせ
頭痛に襲われた日から、瑜葵は体調を崩して床に臥せった。
頭痛はさっぱりないのだが、体がいやに重い。
長時間体を起こすのがつらく、少し何かするだけで疲れて眠くなる。
気疲れだろうと言われ、勧められるまま、瑜葵は大人しく横になって眠り続けた。
傾く夕日が、小田原城の内丸に立てられた北条栄光槍に差しかかる。
かつてこの地を治めた武将が使っていたその武器に、幸村は手を伸ばした。
だが、触れる前に制止の声がかかる。
「それはそのままにしておけ」
「お館様!」
慌てて振り向くと、背後に戦装束の信玄が立っていた。
「改めまして、小田原城ご入場、おめでとうございます」
「うむ、なりゆきによる次第じゃ。伊達の子倅にまんまと踊らされたものよ」
些か複雑そうな顔をする信玄に、幸村はぶんぶんと首を横に振った。
「いいえ!これぞ盛者必衰の理、この地もいずれは武田領となるべくしてあったものと心得まする!また、敵をも武人として尊ぶお館様の御心にこの幸村、胸を熱くしております!」
北条栄光槍を手で示し力説する幸村に答えず、信玄はその槍に歩み寄った。
この場所で信玄と対峙した北条氏政は、信玄の婆娑羅技を食らい死ぬ筈だった。
だが、老齢なる武将が炎に包まれ瞬間、まっさらで暖かい光が彼を包み込み、信玄の技から彼の身を守った。
風魔や氏政、まして信玄の技でもない不思議な光。
氏政を守ったそれが誰によるものなのかは、信玄にもわからない。
だが、それより考えなければならないことが目先にある。
思索を脇に退け、信玄は背後の幸村に問いかけた。
「……幸村よ。織田信長をなんと見る」
「はっ、言い知れぬものを感じました。なんと申しましょう、この世のものとは思えぬような凄みと、殺気と呼んでしまうには生易しい禍々しさ」
あの時、信長の目のなかに見とめた底知れぬ闇を思い出し、幸村は眉を寄せた。
戦場に出て何千と槍を振ってきた中で、あの時ほど槍を重く感じたことはない。
戦慄を振り払うように拳を握りしめ、幸村は言葉を続けた。
「それでも、お館様の敵ではございませぬ!」
幸村の答えに、信玄がゆっくりと振り返る。
その凄まじい眼光を向けられ、幸村は反射的に背筋を伸ばした。
「あれ以来、奥州の独眼竜がなりを潜めているのはなぜだと思う」
「はっ、それは無論、英気を養っておるのでしょう。あの男が第六点魔王と相対して、闘志を燃やさぬわけがありまっぐぁああ!」
言いさした幸村の頬を信玄が殴り飛ばす。
もろに食らった幸村は吹っ飛び、城壁に叩きつけられる。
「本当にそう思うか、幸村!」
「……っ」
信玄の叱咤に飛び起きて、幸村は信玄に駆け寄った。
「まさか、お館様はあの独眼竜が、今川の首を横取りしてはばからぬ者達に臆したと申されるのですか?強さと強かさを併せ持つあの男に限ってそのような……!」
「……」
幸村に答えず、信玄は己の肩に落ちた埃を払う。
そうした動作に気づかず、熱した幸村は拳を握りしめ眉を寄せた。
「もしそうならば、それがし見損ない申しっぐああっ!」
またも言いさして拳を食らい、幸村はさっきと同じように吹っ飛ばされる。
壁の亀裂が一層深くなるが、幸村は全く堪えた風もなく立ち上がった。
「恐れを知らぬは愚の極み!恐れを知ることもまた、必要にして不可欠なもの」
「なっ、しかし、強い敵を恐れていては」
「ぬん!」
腹に拳を食らって、幸村はまたも吹っ飛ばされた。
だが、今回は壁に叩きつけられることはなく、辛うじて持ちこたえる。
「幸村よ。お前は何故この戦乱の世に槍をふるう。なぜ戦う!」
「そ、それは、お館様のお役にたちたい一心にて。ひいては、お館様に天下をお取りいただき、この日のもとを統べていただきたく!」
「それがなったとき、お前はなんとする」
「それがしは、お館様のお側にて、生涯お館」
「ぬぅああ!」
四度目、またも信玄が拳を握りしめ、殴りかかる。
幸村が咄嗟にぐっと目を瞑り、拳圧で鉢巻が翻る。
だが、四度目の衝撃はなく、幸村は恐る恐る目を開いた。
すぐ目前にある拳は幸村に触れることなく下される。
信玄は拳を下ろし、幸村から北条栄光槍に視線を移した。
「いずれお前にもわかる時が来よう」
「お館様……?」
信玄の挙動を不思議に思った幸村は、小首を傾げた。
いつもはそれと答えを明確にする信玄が、今はそうしなかった。
何が何かわからず、幸村は仔細を問おうと口を開いた。
だが、それより早く二人の背後に忍が降り立った。
「ご報告があります」
「才蔵か。何があった」
信玄の問いに、才蔵は僅かに躊躇いつつも報告し始める。
「……瑜葵様が突然頭痛を訴えられまして、二日前から床に臥せっております」
「なに?」
「なっ、なんと申した才蔵!瑜葵殿が、病?!」
才蔵の報告に、信玄と幸村はさっと顔色を変えた。
「薬師はなんと言っておるのだ、見立ては?病は篤いのか?」
「わかりませぬ、と……ただ、薬湯で快方に向かっております」
「そうか……だが、瑜葵殿はさぞ心細い思いをしておろう。某、傍にいてやれず……っ」
言葉に詰まり、幸村はぐっと拳を握りしめた。
戦に出る前に見た、瑜葵の顔が思い浮かぶ。
ほんの少し寂しげな色を映した、不安に揺れる瞳が思い出されて、幸村は肩を震わせた。
「落ち着かぬか幸村!」
「お館様、なれど……っ」
「傍におれぬことを悔いても何も変わらん。肝心なのはこれからじゃ」
肩を押さえ、信玄は幸村を押さえた。
気持ちは信玄だって同じ、否、養父となった信玄のほうが深いだろう。
だが、今小田原で狼狽えていても、瑜葵のそばにいてやれるわけではない。
「相模平定ののち、甲斐に帰還する。幸村よ、わかっておるな?」
「お館様……っ、この幸村、全力を以てこの相模を平定致しまする!」
「うむ、それでよい!総員に急ぐよう伝えよ、才蔵!」
「畏まりました」
才蔵がすっと影に消え、幸村と信玄も足早にそれぞれの仕事に向かった。
傍にいてやりたいと思うのに
(傍にいてやれぬ)(心細かろう)(すまぬ、と詫びる心)
瑜葵の護衛を任せていた忍びの気配を感じ、佐助は眉を寄せた。
「何かあった?才蔵」
「瑜葵様が病にて伏せっております」
「え!?」
西方を睨んでいた佐助はかっと目を見開いて、才蔵を振り返った。
「病って、また池に落ちたの?」
「は?いえ、そのようなことは」
「じゃあ、夜更かししたの?縁側で昼寝した?まさかと思うけど、またネギを残した訳じゃないよね?」
「……(長が瑜葵様の母君に見える)」
「ちょっと才蔵、今なんか失礼な事考えなかった?」
「いえ別に何も」
さっと横を向いた才蔵に半眼になりつつ、佐助は頭を働かせた。
十里先から殺気を放つ上杉の忍びを足止めしなければならない。
そのあとは大将達と相模平定だが、その前に一度様子を見に行った方が良いだろう。
「才蔵、奥州の様子を監視して」
「それは長の仕事だったのでは……」
「才蔵。さっき何考えてたのか、言う?」
にっこり。どす黒い闇の婆娑羅を漂わせた佐助に、才蔵は全力で首を横に振って逃げた。
それを笑顔で見送った佐助は、手甲を着けたままの手で額を押さえた。
「瑜葵ちゃんはもー、ちょっと目を離したら病だなんて」
離れられないじゃないか、まったく。