- 巫女と呼ぶ声
――巫女を連れ戻せ
――巫女を坐へ連れ戻せ
「それにしても、ぼろぼろだねぇ……」
瑜葵の格好を上から下まで眺めて、佐助はそう呟いた。
髪はもとより、着物も引き倒された拍子に泥や砂がついて、所々ほつれている。
もっとも、着物の砂埃の半分は信玄と幸村の所為でもあるのだが。
泣き腫らした目は兎のように赤いし、目元も擦ったせいで細かい傷が出来ている。
「佐助さん、ごめんなさい」
「なんで瑜葵ちゃんが謝るのさ、悪いのはその不審者達でしょ」
「佐助さんが、梳いてくれた髪、……ぐしゃぐしゃに、なって」
「それも不審者のせいだよ」
「被衣も、絶対取っては駄目って、なのに」
言っていて悲しくなったのか、瑜葵の目にまた涙が浮かぶ。
慌てた佐助は瑜葵の肩を軽く叩いて、真っ直ぐに目を覗き込んだ。
「俺様は全然怒って無い。瑜葵ちゃんは言いつけを守ろうとしたし、髪も、館に帰ったら元通りにしてあげる」
俺様を誰だと思ってるの、真田忍隊の長だよ。と冗談めかして付け加え、佐助はへらりと笑った。
「泣き顔より、笑顔のほうが見たいなー、俺様」
「佐助さん……わかり、ました」
瑜葵は、泣かないようぎゅっと目を閉じて涙をこらえた。
どうにか涙を押さえたのを見て、佐助はほっと安堵した。
なにせ、主二人が背後で、瑜葵を泣かせたらただじゃすまさないと無言の圧力をかけてきている。
「霧隠才蔵、報告いたします」
言うのと同時に、才蔵が姿を現す。
「才蔵、今までどこにいたのさ」
「瑜葵さまに無礼を働いた男たちを追跡していました」
「して、そやつらは何者じゃ?」
信玄の問に、才蔵は一瞬答えに窮した。だが、すぐに口を開いた。
「奴らは、北東にある森に入りました。しかし、そこには見えない壁のようなものが張り巡らされており、いかな忍具・忍術を用いても侵入不可能」
「見えない壁?それ、忍術じゃないんだ?」
「はい。人相書きを作成し、下忍に森の見張り及び奴らの身元を捜索させております」
才蔵の報告に、佐助は目を眇めた。
忍が通過できない、見えざる壁。
安芸の毛利元就がそんな技を使うと聞くが、それは土遁の術などを阻んだりはしない。
そもそもあれは固有技で、例え同じ光の婆沙羅の持ち主であっても使えない。
「どうにも厄介な連中みたいっすね、大将、旦那」
「うむ。ひとまず、館に戻るとしよう。瑜葵も、だいぶ疲れたであろう」
信玄の言葉に、幸村も深く頷いた。
知らない人の行き交う往来よりは、館のほうがはるかに安全だ。
「一体、何者なのでござろうか……」
館に帰って、佐助に髪を整えてもらうとすぐ、瑜葵は眠りに落ちた。
それを確認して、才蔵と鎌之助に護衛を任せ、佐助は信玄の部屋に向かった。
そこには、信玄本人と、幸村、前田の風来坊(それに夢吉)がいた。
人払いも済ませ、辺りに人気はない。
「大将、報告します。裕福な商家、由緒ある貴族、館を構える武家で行方不明の姫はいませんでした。没落したのも一応調べましたが、瑜葵ちゃんの特徴に一致する姫はいません」
「む……」
「瑜葵殿は、一体何者なのでござろうか………」
「確かに、ただの庶民には思えないな。なんていうか、浮世離れした感じが」
慶事の言葉に、幸村たちは頷いた。
艶やかで長い黒髪は、庶民には手入れできないし邪魔になるからまずない。
すべすべの白肌も、細腕も、庶民ではまず持ち得ない。
だが、瑜葵には、庶民貴族云々以前におかしい点があった。
まず、小袖を普段着とする今において、その着方を知らないという点。
そして、瑜葵には『国』や『武士』という概念が全くない点があげられる。
武士なら言うまでもなく貴族も、日ノ本には『国』があり、それを治める『武士』が居るのは当然と認識している。
しかし、それが瑜葵にはない。瑜葵は世界を知らないのだ。
世の中と隔絶して生きて来たのなら、身元を割り出すのは困難だ。
だが、世の中と隔絶した身とは、一体――そこでいつも壁にぶつかる。
武田三人は沈黙し、ぐるぐると考えを巡らせた。
沈黙を破ったのは、どこか自信なさげながらも手を挙げた慶次だった。
「あのさ、聞き間違いかも知んねーけど、瑜葵ちゃんを助けた時、『巫女』って呼ばれてたんだよ」
「巫女、とな?」
「ああ。でも、巫女に対する扱いには見えなかったから、聞き間違いかも知んねーけど……」
「巫女という可能性があったのぅ……!」
「確かに、瑜葵殿の清楚な感じは正しく巫女に相応しいでござる!」
巫女と聞いて、佐助は、初めて会った時の瑜葵を思い出した。
あの憑かれたかのような様子は、神憑りだったのかもしれない。
巫女ならば小袖は着ないし、幼いころから神事に従事するため、俗世との縁はなく、世間を知らないまま育つ。
「水……朝に、水に向かう癖があるのは、禊ぎか!俺様としたことが、失念してたな。ちょっと行って、調べてくる」
「頼むぞ佐助ぇえ!」
すっと姿を消した佐助を見送ってほどなく、女中頭が慌てた足取りで部屋に来た。
「どうした。人払いした筈じゃが」
「はい、聞き及んでおります。ですが、火急の件との事です」
「火急の件とは、一体なんでござるか?」
女中頭の申し訳なさげな声音にそれ以上追及することはできず、幸村達は用件を訊ねた。
「三珠神社の宮司と名乗る者が、『甲斐の姫』を返して頂きたいと参上しております」