- 今居る喜び
佐助は才蔵の言う神社に向かったが、入ることは叶わなかった。
見えない壁のようなものに囲われており、どんな忍術も通用しないのだ。
しかも、そこここに闇の気配が渦巻いていて、神域とは思えないほど濁って見えた。
「やんなるねぇ、まったく」
通常、巫女は一生を一神社に仕えて終える。
巫女が神社の外に出るのは、病になったときか、追放されたときだけだ。
瑜葵は見たところ病ではないし、追放されたなら連れ戻しになど来ない。
瑜葵が神社から逃亡し、連れ戻しに来たと考えるのが妥当だ。
佐助は、溜息をついて視線の先にある神社をねめつけた。
信玄は佐助の報告を待つため、三珠神社の者を朝までとどめ置かせた。
その夜は、幸村と慶次は瑜葵の部屋の前で番をした。
万一、その者達が庭伝いに侵入しては困るからだ。
朝になって、瑜葵は信玄の部屋に呼ばれた。
そこには幸村と慶次もおり、佐助は、と視線を巡らせると同時に、声がした。
「猿飛佐助、只今戻りました」
「おかえりなさい、佐助さん」
音もなく現れた佐助に、瑜葵は僅かに微笑んでそう言った。
少しばかり、緊迫しかけた空気が和らぐ。
「ただいま、瑜葵ちゃん」
瑜葵ににこりと笑って答え、佐助は、ちらと信玄に目配せした。
それだけで何らかの収穫があった事がわかる。
「瑜葵よ、心して聞け」
信玄の重い声に、瑜葵が顔を引き締めた。
幸村も居住まいを正し、信玄の言葉を待つ。
「瑜葵よ、儂は佐助に命じてお主の身許を探しておったのじゃ」
「身許、ですか」
「うむ。何もわからぬのでは、辛いであろうと思っての」
ちら、と信玄が佐助を見ると、佐助は心得て口を開いた。
「三珠神社の巫女が、最近行方不明になっているのがわかりました。年齢は十七歳、長い黒髪に細身、身長は五尺余りだそうです」
「………!」
佐助の言わんとすることがわかり、瑜葵は瞠目した。
余りの驚きに言葉も出ず、おろおろと視線をさまよわせる。
「瑜葵よ、その三珠神社の者が迎えに来ておるのだ」
「迎え、に……?巫女、を……?」
――巫女よ……!
城下町で会った男たちを思い出し、瑜葵はぞっとした。
狂気じみた物言いと顔つきを思い出すだけで、体が震える。
頭のどこかが、あの男達はよくないと、近付いてはいけないと警鐘を鳴らす。
「………嫌、です。駄目です」
予想外の言葉に、お館様や佐助、幸村が目を瞬かせた。
瑜葵は守るようにかたく自身を抱きしめ、震える声で言った。
「駄目です、彼らは、……嫌です。彼らと、帰る、のは、嫌です」
「瑜葵ちゃん、何か思い出したの?」
佐助が問うと、瑜葵は首を横に振る。
瑜葵の記憶は、武田に拾われた以降しかない。
それ以前は、靄に包まれたように判然としないのだ――誰かがそれを思い出すことを阻んでいるかのように。
「彼奴等と帰るのは、何故嫌なのじゃ?」
「彼らは、……怖い……良くない予感がするんです。行っては駄目だって、誰かが言っているみたいに、怖くて」
信玄たちは視線を交わし、思案した。
身元がわかって喜ぶかとは思ったが、瑜葵はいい反応を示さなかった。
思えば瑜葵は記憶がないことを不安に思ったり嘆いたりしない。
無理に身元を捜す必要はなかったのかもしれないと思い、信玄はやや後悔した。
探さなければ、三珠神社のことで瑜葵を怯えさせることはなかったのだ。
怯えて身を震わせる瑜葵を三珠神社の者に引き渡すのは酷に思えた。
「幸村よ、彼奴等に伝えよ。『武田の姫は、巫女に非ず』と」
「お館様!某、誠に有り難き所存にございます!瑜葵どのを掠おうとした不逞の輩に、瑜葵殿は渡せませぬ!お館様の厚い慈悲、某心打たれ申した!」
ゆらりと立ち上がり、幸村とお館様が向かい合う。
こぶしを握りしめ、そしていつものが始まった。
「うむ!幸村よ!」
「お館様!お館様ぁぁ!!」
「幸村ぁぁ!」
「お館さばぁぁ!」
ばきぼこどかん。
恒例の殴り合いが始まり、場の雰囲気は一気に緩んだ。
佐助はいまだ震える瑜葵の傍に行き、手を引いて被害に遭わないよう避難させる。
「よかった。瑜葵ちゃんが帰るとか、言わなくてさ」
「?」
「瑜葵ちゃん、普通さ、忍って『おかえり』って言われないもんなんだ」
武田の優しい人達でも、それは言わない。
そういうものだという、無意識の常識によって、いうことすら思いつかない。
「だから、瑜葵ちゃんが居なくなると、俺様『おかえり』って言われなくなるんだよね。考えたらさ……凄い嫌でねー」
照れ臭そうに、けれどごまかすことなく佐助は言う。
その言葉が、瑜葵は凄く嬉しかった。
此処にいて欲しいと望んでくれている言葉に、胸が温かくなる。
ほわりと火が灯ったような温もりが、恐怖を退けてくれる。
瑜葵は、ぎゅ、と佐助に抱き着き、鍛えられた胸板に頬をすりよせた。
苦笑しつつも佐助は受け止め、髪をそっとなでる。
「む、佐助、狡いぞ!」
「ぬぁ!?さ、さ、佐助、何たる破廉恥なぁあっ!」
「あ、ばれちゃった?良いじゃん、ほら、一日で調べあげたご褒美とかで」
佐助はけろりと悪びれなく言う。対し、顔面(以外も)真っ赤な幸村は叫んだ。
「それなら、給料一割上げる故、瑜葵殿から離れよ!さもなくば給料を減らすぞ佐助ぇ!」
「え、ちょ、何それ増やすか減らすかはっきりして?」
「減らす!」
「冗談しょ?離れますってもー旦那は初だねぇ」
渋々佐助が瑜葵から離れると、幸村は佐助と何やら給料問題を討論し始めた(佐助優勢)
「瑜葵、三珠神社の者はわしが追い返そう。おぬしはこの武田の姫じゃ」
「お館様、ありがとうございます……!」
優しい手つきで頭をなでつつ、信玄は瑜葵に言い聞かせた。
世間の事など知らぬ、まるで子供のような娘。だが、誰かが傷つくのを嫌がる、優しい心根の娘。
願わくばその真白の心が血濡れることなくあってほしい。
それが戦乱の世においてありえぬことでも、どうか。
それは、信玄だけでなく佐助や幸村も抱く願いだ。
血で血を洗うような戦場にいるからこそ、求める願い――。
瑜葵は、三人にとって必要な存在だ。そのささやかな微笑み一つに救われる心地がして、傍にいてほしいと望む。
「瑜葵よ、おぬしはここにおれば良い」
「……はい……!」
信玄の言葉がなにより嬉しくて、瑜葵は泣いてお館様に抱き着いた。
破廉恥でござるぁぁぁあ
(いやー春っていいねぇうんうん)(ちょっと風来坊、突っつかないでくれる。旦那もうるさい)(わっはっは、面白いのう)