教官の苦労
その朝、キースは耐えがたいほどの眠気に襲われていた。このまま眠れるならクビになってもいいと思えるほどに眠く、やたら元気な朝日がとかく恨めしい。
訓練兵きっての問題児を教官室でこってり絞った後、明け方まで同僚たちと会議をしていたせいだ。議題は目下、女子寮付近に出没する不審者とやらにどう対処するかだ。
普通なら、対処などしない。女だろうと男だろうと、兵士ならば自分の身は自分で守るべきだ。
しかし、今回は無碍にできない事情がある。兵団に資金援助している家々から、苦情がぞくぞくと届く事態になったのだ。良い家柄の子供が、手紙で親に不安を訴えたせいだろう。大事な子供を預けているのだから、きちんと警備してもらわねば困るなどと、何を勘違いしているのやら。

不審者ひとり撃退できずして、なにが兵士か。不審者が怖いなら、何処へなりと帰ってくれればいいのに。誰もがそう思っていたのだろう、会議は全くと言っていいほど平行線をたどり、何も決まらぬまま朝を迎えた。これほど虚しいことが他にあるだろうか、いやない。
訓練場に行く前に、水場で顔を洗って目を覚まそう。芋が少し入っていたはずなのに、なぜか空っぽになっていた藁袋を――犯人は明白だが――小脇に抱え、井戸へ向かった。そこで顔を洗った後、キースは押し問答をしている面々に出くわした。

シガンシナから来た三人組がトリナと一緒にいるのは、まだ理解できる。しかし、ハンジ分隊長の補佐官がいる理由がわからない。縁のゴツイ眼鏡や付け髭などの、簡単に見抜ける程度の変装している理由はもっとわからない。

「モブリット。こんなところで何をしている?その眼鏡と髭は何なんだ?」
「キースだん……教官!ちょうど良い所に来てくれました。じつは、かくかくしかじかでして――」

説明を聞いて、キースは実に厄介な話に首を突っ込んでしまったことを後悔した。トリナの脱走と徘徊は、一か月前までは毎日のことだった。しかし、壁内外での負傷や発熱による凶暴化はあまり良くない。殺人事件が起きた夜に、彼女の脱走を許したことは更に良くない。

「なるほどな。憲兵の考えそうなことは良く分かる。あの忌々しい小娘に、どれくらいの価値があるのかもな」
「協力していただけますか?」
「私は一線を引いた身だ。今は訓練兵団に所属し、調査兵団とは関係ない」

モブリットに背を向け、キースは訓練兵の肩に担がれたトリナを見た。人類最悪の日に現れ、巨人を殺して回った末に昏倒した少女だ。これは神の与えたもうた反撃の一矢ではないかと期待し、そうではないと知った時。そして、巨人の侵攻を食い止める役にも立たないと分かった時の、やるせない落胆は今も覚えている。

人と等しく命を持ちながら、人の知性と理性をもたない。巨人の無知性と凶暴性を彷彿とさせる在り方に、キースは生理的な嫌悪感さえ持っている。彼女自身に落ち度はなくとも、存在そのものをよく思えないのだ。
しかし、好悪だけで判断できないことも分かっている。今の彼女は、エルヴィンが使い道を見出し、リヴァイが馴らした武器だ。多少の不便に目をつぶれば、彼女の戦功は実に称賛に値すべきものと言えよう。少なくとも、キースよりは巨人を多く殺している。

「協力しよう。ただし、殺人犯と判った暁には庇えんぞ」
「ありがとうございます!」

たとえ殺人犯と判っても、ハンジがみすみすトリナを憲兵に引き渡すとは思えない。キースの協力がなくとも、なんとかなるだろう。凡人には天才に祈るより術がないことを、モブリットは十分に承知していた。



食堂へ向かう道すがら、ミカサは立ち止まった。戻って教官に抗議するべきではと思うと、自然と足が止まってしまう。もうトリナを引き渡してしまった後だというのに、後ろ髪を引かれてしまうのだ。

「おい、いい加減にしろよ!朝飯食いっぱぐれるだろ!」
「……納得がいかない」
「またそれか!教官が大丈夫って言ったんだから、大丈夫だろ」

不審者かもしれない人と内緒話をした後、教官はミカサ達にトリナを彼に引き渡すよう命令した。彼の身元は自分が保証すると。そして、食堂に行き、同期に緘口令を伝えるようにとも言った。
トリナが訓練兵団に来ていたこと、そして調査兵団の兵士が彼女を連れて行ったことを。そして、緘口令のことさえ、誰にも言ってはならないと。もし誰かが話したら、トリナは非常に厄介な立場に置かれるだろうと脅しすらした。

なぜ隠さなければならないのか、教官は説明してくれなかった。アルミンは質問しようとしたが、彼は取り合おうともしなかった。彼女が裸だったことを伝えようにも、さっさと去れとばかりに追い払われた。トリナの昨晩の行動を知られたくない理由は一体何なのだろう。なんとなくだが、ミカサにはそれが良くないことのように思えてならない。

「何か事情が在ったんだと思う。僕達には分からないけれど、……ほら」

アルミンはそれとなく背後を目線で示した。訓練兵団の詰所へとぞろぞろ入っていく人影が、遠目にもよく見える。彼らの背には、憲兵兵団の紋章があった。訓練兵団の敷地内に彼らが居るということは、軍法違反の案件だろう。

「トリナが、何をしたの?」
「わからない。でも、彼女に疑いがかかると困るから、緘口令を敷いたんじゃない?」

トリナが抱える危険要素はたくさんある。何も判断できない子供が、人間を捻り潰せるだけの戦闘能力を備えているのだ。当人にそんな意図はなくても、無造作に揮えば被害が出る――癇癪を起した時のように。
しかし、癇癪を起したのならば、泣くか叫ぶかして夜のうちに見つかっているだろう。兵団の敷地内で彼女に攻撃命令が下るとも思えない。なにより、意思のない彼女には、犯罪を隠蔽することもできない。血を洗い流すことも血のついた服を脱ぐことも不可能だ。

トリナは加害者ではない。むしろ、誰かに服を脱がされたのだから、被害者のはずだ。しかし、彼女は厄介者みたいに扱われている。泥だらけの藁袋に押し込められ、人目を避けるようにして運ばれていった。ミカサの目には、軍が不審者を庇おうとしているように見える。軍の敷地内で不祥事が起これば、それは軍の責任問題になるから。被害者が何もわからない子であるのをいいことに、握り潰そうとしているのではないか。

「あの男は、不審者だったの?」
「それもわからない。でも、少し急いだ方がいいね。……あの子が軍法会議にかけられるなんて、嫌だろう?」

ミカサの背中をぽんと叩き、アルミンは肩を竦めて笑いかけた。そうした優しさは彼だけが持っていて、不思議とミカサの心を軽くしてくれる。頷きを返し、ミカサは先をゆくエレンの背を追うべく足を早めた。
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