- 乱入事件
その時はただ、体が思うように動かない事に耐えられなかった。耐えられなくて、必死に手を伸ばした。ただ一人、傍にいた人に。その人が痛みを与え、自由を奪ったのだということも知らずに。
新兵訓練場の近くには、立体起動装置の訓練に使われる崖がある。正確には傾斜角八十度くらいの急斜面だが、禿山にされているため一見すると崖に見える。その頂上に腰掛ける人影をみて、イルゼは胸を撫で下ろした。
訓練兵団に見つかってもおらず、揉め事も起こっていない。ただ崖の上にいるだけなら、見咎められても穏便に済ませられる。
「トリナ、下りてきなさい!」
呼び掛けると、トリナが視線を向けてくる。反応があったことに安堵し、イルゼは密かに安堵した。トリナはエルヴィンとリヴァイの命令以外は殆ど聞かない。覚えていない人の話は雑音だと思うのか、たいていは無視している。たとえ一回の命令で下りて来なくても、反応があっただけマシというものだ。
「トリナ、おいで!」
二度目の呼びかけにも、トリナは従わなかった。ただこくりと首を傾げて、相変わらずの無表情で見つめて来るだけだ。どこかフクロウに似ている動きに、イルゼは少し不気味なものを感じた。
「トリナ、下りてきなさい!此処に、来るの!」
三度目の呼びかけにも、トリナは従わない。従わないばかりか、興味を失い他所へ視線を移してしまう。イルゼは崖の上を見上げ、溜息をついた。訓練時を除き、基本的に壁内では立体起動装置の使用は禁じられている。崖の上に行くには、ロッククライミングするか迂回して行かねばならない。
崖をよじ登るには装備がないし、迂回する間に逃げられたら元も子もない。トリナに降りてきてもらえば、一番簡単かつ確実に身柄を確保できる。
「トリナ!今すぐ下りてき」
「おい、何を騒いでいる」
威圧感のある声に遮られ、イルゼは思わず飛び上がった。嫌な予感と共に恐る恐る振り返ると、すぐ背後に威圧感を放つ訓練兵団の兵士が仁王立ちしていた。そのあまりの迫力に、イルゼは泣きたくなった。訓練時代の教官とは違う人だが、教官然とした威圧感に身が竦む。
「答えろ、何を騒いでいる」
「は、はい。あの、そ、その、トリナを発見したので、回収しようとしていました」
「トリナとは例の兵士か」
教官は崖の上を見上げ、このところ兵団内を騒がせる兵士を見つけて顔を歪めた。
「あれは団長か兵士長の命令しか聞かん。叫ぶだけ無駄だ」
「しかし、放置する訳に、は……」
何かが頭上を奔る気配がして、イルゼと教官は同時に空を仰ぐ。滑空する黒い影を見つけ、イルゼは瞬間的に鳥だと思った。しかし、瞬きした瞬間にその影は人へと変わる。長い黒髪を風に遊ばせ、どこか楽しそうに目を輝かせる人間に。
「トリナ……?」
まるで翼を持つもののような身軽さに、誰もが呆然とする。しかし、イルゼはその先を目で追い、血相を変えた。
「避けて!」
その声に、空を見上げていた訓練兵たちがハッと我に返る。しかし時遅く、訓練兵達の真ん中にトリナが着地する。幸い誰かが下敷きになることはなかったが、下手をすれば大惨事になるところだ。予想外に軽い振動が地を揺らし、長い黒髪がバサリと音を立てて翻る。その黒髪の隙間から見えるコートの紋章に、訓練兵達がどよめく。
「自由の翼?!」
「調査兵団の……?」
怖気づいた訓練兵が、トリナから距離をとる。しかし、渦中の彼女は周囲の動揺など素知らぬ顔で立ちあがる。彼女は真ん前にいる少年の顔をじっと見つめた。この金色の目を、前にも見た気がする。そんな気がするだけで、記憶はない。トリナは両手を伸ばして、少年の顔を掴んだ。訓練兵達がざわめき、黒髪の少女と金髪の少年がぎょっと目を剥く。
「だれ」
「え?あ……エ、エレン・イェーガーです」
反射的に答え、少年兵――エレンは訝しげに眉を寄せた。なぜ名を問われ、至近距離で凝視されるのか。調査兵団の兵士でなければ手を振り払っているところだ。
「えれん、……しらない」
エレンという名を、トリナは知らない。知らないのに、知っていた気がする。その不思議な感覚に強い興味を覚え、トリナは目を輝かせた。そして、顔を掴んでいた手を下ろし、もう一人の兵士の方へ向かう。黒髪の少女だ。殺気立っており、今にも飛びかかってきそうな顔をしている。トリナはその少女の前に立ち、まじまじと見つめた。やはり、知らない顔だ。知らない顔なのに、――知らない気がしない。
「だれ」
「……ミカサ・アッカーマンです」
少女――ミカサはひやりとする声音で答えた。不審な言動を繰り返し、あまつエレンに触れた。それだけで敵対視するには十分だと、殺気を込めて睨みつける。しかし、普通ならば命の危険を感じて退くほどの敵意に対し、この不審な兵士は全く反応しない。
「……みかさ、……しらない」
その名前も、トリナの知らない名前だ。しかし、知っていた気がする。エレンの時と同じ不思議な感覚に、トリナは目を輝かせた。しかし、二人の間にざっと人が割り込んできて、その感覚を踏み荒らしてしまう。
「トリナ!」
「……」
知らない顔だ。不思議な感覚もない、本当に知らない人だ。興味が失せ、トリナはくるりと踵を返した。少年少女への興味は霧散し、この瞬間までの記憶すらも薄らいでいく。
「ちょ、トリナ?何処に行くの!」
「……しらない」
知らない人が騒ぎ立てる。わけのわからない言葉を怒鳴る。しかしその声は雑音でしかなく、トリナはその場を後にした。残されたイルゼは、髪をぐしゃぐしゃに掻き毟って唸った。彼女の言動にどんな意味があるのか、全く理解できない。
しかし、一つだけわかることがある。この騒動で頭を下げるのは、トリナではないということだ。今にも爆発しそうなほど激怒している教官を見て、イルゼは心のなかで泣いた。