イルゼの災難
ウォール・ローゼ陥落から三年目、春。第一○一期訓練兵が各三兵団に配属され、新たに十二歳を迎えた青少年が第一○四期訓練兵として入団した。
世論に流されて志願した者。巨人への憎悪を抱く者。体制に蟠りを持つ者。守りたい人を想う者。覚悟を持つ者、持たない者。夢を持つ者、野望を持つ者。整列した訓練兵の面構えを一瞥し、教官は険しい表情を浮かべた。

「これより、第一○四期兵団の入団式を行う!」

ドスの利いた罵声がビリビリと空気を震わせ、あまりの威圧感に訓練兵の顔が引き攣る。

「私が運悪く貴様等を監督することになったキース・シャーディスだ!貴様等を歓迎する気は毛頭ない!今の貴様らはせいぜい巨人の餌になるしかない、ただの家畜、家畜以下の存在だ!」

いきなり罵声を浴びせられ、訓練兵の額に汗が浮かぶ。プライドを刺激されて憤る者も居ないではないが、早くも立ち去りたそうな顔の方が多い。

「そんなクソの役にも立たん貴様等を我々が三年かけて鍛え上げる!巨人と戦う術を叩き込んでやる!」

訓練兵の大半が農民、一般市民であり、これまで罵られることなどなかった者達ばかりだ。噂を聞いて予想はしていても、実際に罵られると身が竦む。その情けない面構えを睥睨し、シャーディス教官は更に表情を険しくした。

「三年後、貴様らが巨人の前に立った時!ただの餌のままか、或いは王を守る名誉ある壁となるか、または巨人を駆逐する栄光ある人類の兵士になるか!貴様等が決めろ!」

命令に応えるように、訓練兵が一斉に敬礼の構えをとる。まだ不揃いなその動きを、崖の上から見下ろす人影があった。


「ハンジ分隊長、トリナを見かけませんでしたか?」

廊下で声をかけられ、ハンジは振り返って目を瞬かせた。走ってきたと思しき真っ赤な顔の新兵が、肩で荒い息をしながら立っていた。名前はイルゼ・ラングナー、トリナの見張り係になった新米兵士だ。

「トリナが居なくなったのかい?」
「はい。基地内を探し回ったんですが、どこにも……。どこか心当たりはありませんか?」

イルゼの問いに、ハンジは苦笑した。ハンジが教育係になるまで、トリナの活動は極端なまでに制限されていた。訓練以外の時間、彼女はずっとエルヴィンの執務室にいた。自由に動くことを許されず、置物よろしく待機させられていたのだ。
ひとえに彼女の扱いが難しく、団長と兵士長が多忙だったためだ。しかも、ハンジに預けた後も、二人は彼女に自由を与える気はなかった。しかし、置物のままでは何も変わらない。刺激を与えることで関心を引き出し、記憶を作れるようにならねば教育の意味がない。

ハンジはエルヴィンにそう訴え、限定的ながらトリナの自由を勝ち取った。リヴァイは物凄く険しい表情で舌打ちしたが。エルヴィンは笑顔だったのに。それからハンジは、トリナ育成のための試みとして散策を始めた。身の回りを取り巻くものに積極的に接触させ、刺激とするためだ。
トリナが自発的に動かないので、最初はハンジが手を引いて連れ歩いた。何度忘れられても、目に見えるものの名称を教え、触れさせた。無駄かもしれないが、ハンジは決して諦めなかった。

その甲斐あってか、トリナは一人で歩き回るようになった。ただ、その動向は興味の向くまま気の向くまま、這い這いを覚えた赤ん坊のそれと同じだ。入ってはいけないところ、普通なら立ち入らないところにも躊躇いなく入る。リヴァイの命で基地内からは出ないが、逆に基地内ならば何処にでも行くのだ。

「エルヴィンの部屋は?」
「真っ先に確認しました」
「リヴァイの部屋も?」
「二番目に」
「じゃあわからないね……でも、早く見つけないとまた揉め事になるかも」

トリナを一人で散策させると、大概どこかしらで問題になる。下級兵士や新兵に絡まれ喧嘩になる、新兵訓練場へ入って教官に遅刻と勘違いされる、その他諸々。彼女に見張りを付けるのは、そうした問題を折衝するためのものだ。見張りがいれば、トリナの起こす騒動は格段に減る。

稀に見張りの機転が悪くて揉める事もあるが、自由に歩かせていた頃に比べれば遥かにましだ。壁外調査前にいちいち紹介する手間が省けるし、意識調査にも役立っている。そして、今週の見張りであるイルゼは今、トリナを見失っている。早いところ見つけなければ、どこかしらで問題を起こしかねない。

「前の見張りの子が言ってたよ。最近、トリナは崖に良く行くって」
「崖ですか?」
「ああ。風の音が気に入ったみたいだって言ってたよ」

まあ、その子の主観に過ぎないけどねと付けたし、ハンジは苦笑した。それでも、イルゼにとっては手掛かりを得られただけでも僥倖だ。

「ありがとうございます、分隊長!御引止めしてしまい、申し訳ありませんでした!」
「まあ、よろしく頼むよ。手は焼けるけど悪い子じゃないからさ」
「はい!それでは、失礼します!」

敬礼し、イルゼは素早く踵を返した。基地内で崖と言って思い当たるのは、新兵の訓練場と兵士の修練場くらいだ。修練場ならまだしも、新兵の訓練場に入ったら揉め事は避けられないだろう。イルゼは背中に冷や汗を感じつつ、訓練場へとひた走った。


トリナは崖の上から訓練場を見つめた。そこにトリナの知るものは何もない。興味を引く物もない。ない、はずだった。

「……」

トリナには、そこに並んでいるものが人間か木かすらわからない。しかし、黒い髪の少女と少年――人目を引くほどに綺麗な少女と、攻撃的な面差しの少年から目が離せなかった。そのどちらを見ても、空っぽの胸に何かがさざ波立つ。遠い空の彼方からか、すぐ近くの背中側からか、何かが囁いているような気がした。
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