雪と高い高い
ウォール・マリア陥落から二年後、政府は大掛かりな奪還作戦を実行した。それは実質、抱えきれない失業者の口減らしであった。生産性のない老人と食い扶持の多い成人が駆り出され、抗う術も力もないままに二十五万の命が散った。
働ける青少年だけが残され、彼らは荒れ地の開墾作業に従事させられることとなった。開墾地の視察に来た憲兵兵団は、吹雪の中で開墾している現場を見て顔をしかめた。

「ここは冬を迎える前に耕地になっている筈ではなかったか?」
「し、しかし……大半の労働者が奪還作戦に駆り出されたので……」

上官の機嫌を損ねまいと、部下の一人がびくびくしつつ答える。その答えに、上官はますます顔をしかめた。

「そんなことはわかっている。しかし、何としても予定の生産量を守るのが貴様らの役目だ」
「も、申し訳ありません」
「このままでは、我らは飢える一方だ」

ざくざくと雪を踏みしめながら、憲兵兵団達は次の開墾地へと移動していく。それを横目に、開拓民は凍える手で足元の石を拾い続けた。荒れ地の土には石が混ざっており、牛で耕すと地表に石がごろごろ出てくる。
石があっては作物がうまく育たないため、全て拾って他所に捨てなければならない。吹雪のなかで触れる石は、指先が凍傷になりそうなほど冷たい。それでも王命には逆らえないから、皆が震えながら作業をする。不意に、アルミンが石を拾う手を止めた。

「どうした、アルミン?」

エレンとミカサはアルミンを見上げ、目を瞠った。アルミンは悔しげに顔を歪め、有りっ丈の怒りを込めて憲兵兵団を睨んでいた。普段の優しい彼からは想像もつかない険しい表情に、二人は言葉を失った。

「何が奪還作戦だ……」

拳を握りしめ、アルミンは低い声で唸った。

「口減らしに父さんと母さんを殺したくせに……っ」

奪還作戦にと招集され、去っていった父と母の背中。二人は、戻っては来れないと覚悟し、震える声で別れを告げた。お前は生きるのよ、どうか、生きていてと。愛している、最愛の息子よと囁いて。
二人は、帰って来なかった。骨の一欠片、髪一筋も戻ってこなかった。骸は野辺に置き捨てられ、土の一部になってしまった。

「今に、みてろ」



「トリナ。これは雪というんだ」

ハンジはトリナの前に手を広げた。降ってきた雪の結晶が手袋に貼りついており、刺々した六角形まではっきりと見える。まさに自然美たるその造形も、トリナには然したる感動をもたらさないらしい。無感動に眺めるその目はガラス玉のように生気がない。

「ゆ、き?」
「そう、雪。これが積もると、あれになる」

ハンジは手袋の雪を指さし、次いで足元に積もった雪を指さした。トリナの目には何の感情も浮かばない。興味が湧かなかったらしく、ただ無感動に見つめている。

「こりゃ覚えないな……うーん、どうしたら覚えてくれるかなぁ」

ハンジは苦笑しつつ、手袋に着いた雪を払い落とした。それから、逸れないようにトリナの手を握る。決して握り返されることのない手を、ハンジがしっかりと握り締めた。

「これから家へ帰るよ、トリナ」
「いえ、かえる」
「そう、家へ帰るんだ。今日は仕事が早く終わるから、皆で一緒にご飯食べるんだよ」
「みんな、で、ごはん、たべる」

単語を鸚鵡返しするトリナに、ハンジは頭を悩ませた。ほんの一ヵ月前、ハンジはエルヴィンから彼女を紹介された。名前はトリナ、東洋人特有の綺麗な黒髪と端正な顔立ちをしている。外見からみて十二歳前後と思われるが、詳細は不明。
壁外調査への参加回数は十一回、討伐数は数えた限りでは四十二、討伐補佐はゼロ。戦歴だけで見ればリヴァイにも匹敵する。

しかし、トリナは逆行性健忘症及び前向性健忘症と診断される『記憶喪失』だった。生まれてから拾われるまでの記憶がなく、また、拾われて以降の記憶も殆どない。言葉もわからない。日用品の名称も、用途もわからない。他人の名前は勿論のこと、自分の名前すら頻繁に忘れてしまう。
巨人を殺す事にかけては超一流だが、精神的には甚だ幼く、日常生活も満足に送ることが出来ない。班行動など夢のまた夢、壁外調査では飛び抜けた討伐数と引き換えに様々なトラブルを引き起こしている。

そのため、エルヴィンは彼女に言葉や文字、物の名称を覚えさせることに決めた。そして、ハンジは彼女の教育係として、彼女に関する全権を委譲されたのだ。ハンジはまず、彼女の現状を把握するために実験をしてみた。記憶はどれくらいで消えるのか、覚えられる記憶はないかを調べた。

その結果、記憶は大体一日で消えることが判明した。稀に二日ほど保つ記憶もあったが、大抵は一日で消えた。また、彼女が覚えられる記憶は少ないながらも確かにあった。
まずトリナはエルヴィンとリヴァイのことをはっきりと覚えている。二人がいつ、どんなことをしたかは全く覚えていない。しかし、二人が誰なのか、自分にとってどういう存在なのかは覚えていた。

また、リヴァイが痛みによる『教訓』で教え込んだことは何があっても忘れなかった。エルヴィンとリヴァイの命令は絶対に聞くこと。ガスの量と刃の予備のどちらかが半分以下になれば、直ちに戦線を離脱、補給班の所に戻ること。例え交戦中でも、笛の音を聞けば即座に帰投すること。(その笛はトリナ専用に作られたもので、リヴァイが持っている)

掃除は丁寧に、埃一つ染み一つ残さず除去すること。その他もろもろ、リヴァイが教えたことは何日経っても一つとして忘れなかった。ハンジの事は、毎日顔を突き合わせていても覚えてくれない。

「はんじ」
「ん?どうした?」

不意に呼ばれて、ハンジは我に返った。それから、名を呼ばれたことに驚いた。

「トリナ、今、私の名前を呼んだ?」
「……?はんじ」
「覚えてくれたの?」

問いかけに対し、トリナは首を傾げた。彼女の語彙では、『覚えてくれたの?』と問いかけては通じないのだ。

「ハンジ、どれ?」

確認の意味を込めて聞くと、トリナはまっすぐハンジを指さした。間違いなく、ハンジを『ハンジ』として認識している。

「はんじ、これ」
「そうだよ、私の名前はハンジだよ。やった、やっと覚えてくれたんだね!」

ハンジはぱあっと表情を明るくし、トリナを抱き締めた。喜びのままに、親が子供にするように高く持ち上げる。

「高い高いー」
「たか、い、たかい」
「そう、高い高い」
「はんじ、たか、い」
「そうそう、高い高い。良い子だね、トリナ」

トリナを抱っこしたまま、ハンジは少し早足で路地を歩いた。エルヴィン団長達がトリナの成長報告を兼ねた夕食を待っている。一つ報告できることが出来たと、ハンジは鼻歌を歌いながら本部に帰った。

「ハンジ・ゾエ、ただいま戻りました!」
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