無情な行使
劈くような鋭い笛の音が、強い制止の意図をもって響いた。ただならぬ音に、訓練兵達が思わず動きを止める。教官も異常を感じて、笛を吹いたイルゼの元へ駆け寄った。

「何があった、イルゼ兵卒」
「その、トリナが……」

視線で示されて、教官はトリナの方に視線を移した。先ほどの『待機』の音に従い、トリナは地面に三角座りしている。その前には、力なく地面に倒れ伏す訓練兵の姿があった。名前はマルコ・ポット、つい先程トリナと組ませた訓練兵である。流血こそ無いものの、力なく横たわる姿は屍としか表現できない。

「ポット訓練兵、目を覚ませ」

傍らに膝を付き、教官はマルコの体をガクガクと揺さぶった。しかし、眼を覚ます気配はない。ひっくり返してみると、沫を吹いて気絶していた。額と鼻、あご下に打撲痕があり、見るも痛々しいほど腫れあがっている。視線で説明を求めれば、イルゼは酷く困った顔で口を開いた。

「脳震盪だと思います。頭を挟むように、左米神に肘鉄、右顎下に膝蹴りを同時に叩き込まれたので」

延髄を砕かんとした踵落としを、イルゼが笛を鳴らして止めた。もしそれを止められていなければ、殺されていただろう。聞き耳をそばだてている訓練兵のために、イルゼはそこまで説明はしなかったが。
人は頭の左上と右下から同時に衝撃を与えられると、ほぼ確実に脳震盪になる。しかし、赤子ならいざしらず、十歳を超えた人は脳を激しく揺さぶられたくらいでは死なない。じきに目を覚ますと考え、教官は補佐官にマルコを隅へ動かすよう命じた。そして訓練兵を振り返り、彼らが呆然と立ち尽くすのを見て眦を吊り上げた。

「貴様ら、何を休んでいる。揃って懲罰を受けたいか!」

教官の声に、固まっていた訓練兵達が動き出す。しかし真剣さはなく、落ち着き無くトリナを注視している。怖いのだ。人一人ボコボコにしておいて、顔色一つ変えないことが。たった十秒足らずで人を伸してしまえるその力が。いつわが身に襲い掛かるか不安で、目の前の敵役に集中できていない。イルゼが笛を吹きさえしなければ、トリナは何もしないのに。
溜息をついて、イルゼは笛をポケットに仕舞った。笛さえ見えなければ、多少なりとも危機感は減るだろうと考えて。

「トリナ。どうして、彼を気絶させたの?」
「……」

問いかけても、トリナは答えない。朝から何度か声をかけたのだが、彼女は一切反応しなかった。悪意があって無視している風ではない。まるで彼女の意識からイルゼという存在が欠落しているような、そんな感じだ。
問うだけ無駄かと諦め、イルゼは訓練の様子を観察した。誰も彼もが幼く、体の捌き方一つにしても素人同然に拙い。甘さの抜けきらない顔つきには、兵士らしさなど微塵も感じられない。

「三年前は、こうだったのかな」

たった三年。されど、三年。厳しい訓練の日々は、イルゼから幼さや甘さを奪い取った。過酷な環境は、幼い青少年を否応無しに駆り立てる。覚悟を決めさせ、決断を迫る。世界は彼らを変えていくだろう。
その中で、トリナだけは変わらない。何も覚えない、何も知らないままで過ごしていく。トリナが此処に居る意味など、あるのだろうか。上司の決定に疑問を持つことなど、軍にあっては許されないことだ。しかし、一度抱いた疑問は、胸の中に凝って消えなかった。



ガランガランと鐘が鳴り響く音を聞き、訓練兵達は訓練を止めて整列した。夕食の時間とあって、その動きは無駄に早い。教官はいつもの恫喝と敬礼のあと、解散を許可した。

「マルコ、大丈夫か?立てるか?」
「うん、ちょっと眩暈がするだけで大丈夫だよ。……全身痛いけど」

ジャンの手を借りつつ、マルコは立ち上がった。まだ米神がズキズキと傷む。視界がぐらぐら揺れているが、立ち上がれない程ではない。ふらふらと危なげな足取りで歩き出したマルコに、ジャンが慌てて肩を貸す。

「すげぇボコられてたな」
「見てたんだね」
「まあ、近くだったからな」

あの時、トリナは本気でマルコを殺そうとしていた。もしイルゼが止めなかったら、彼女はマルコの首をへし折っていたに違いない。

「あの子、怖いね」

ぽつりと、ジャンにだけ聞こえる小さな声で、マルコが呟いた。

「手が、まだ、震えてるんだ。怖く、て」
「……ああ」
「対人訓練、もうあの子とは組みたくないや」
「俺もだ。もっと頑丈で強そうな奴と組ませるべきだな」

ひよっこの中に現役の兵士を放り込むなど、調査兵団は一体何を考えているのか。ジャンのような若輩者には、その深慮は理解できない。ただ危険性だけは、はっきりと理解できる。

「明日は、なんだっけ」
「学科と兵站訓練だろ」
「それなら、まだ大丈夫かな」

トリナは学科には参加しない。教えても理解できるものではないし、覚えもしないからだ。兵站訓練は荷物を背負って走るだけなので、誰かと組むことも危険もない。もともと、トリナは自発的に攻撃行動に出ることはないのだが。

「それでも、やっぱり怖い。次は、別の人と組むよ」

未だ震えのやまぬ手を握り締め、マルコはぽつりと呟いた。笛で制御されている以上在り得ないと判っていても、万一を考えるのが人間だ。もしトリナが暴走したら。命令無く攻撃行動に出たら。そう考えると、出来るだけ関わりたくないと思う。
同期が一人、滅多打ちにされたのを見た後ならば、猶更。ジャンは深く頷いて、マルコを引きずるようにして兵舎への帰路についた。
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