色々と、危険
翌朝、トリナは全てを忘れていた。夜中に起きた事も、月を『きれい』だと思ったことも。昨日した事も、会った人のことも、忘れてしまった。はっきりと認識できるのは、目を覚まして一番最初に傍に居るハンジだけだ。
その後ろにいる人は、わからない。その人がここ数日一緒にいるイルゼだと、わからない。必然、記憶も興味もない人よりハンジに意識を向ける。

「おはよう、トリナ」
「……トリナ、しらない」

トリナの言葉に、ハンジの後ろにいたトリナの知らない人――イルゼが息を呑む。しかし、ハンジは驚きもせず、ただ困ったように眉尻を下げた。

「ハンジ、どれ?」

問われて、トリナはハンジの顔を指差した。その動作には、一切の躊躇いもない。

「はんじ、これ」
「うん、よくできました。トリナは、これだよ」

ハンジがトリナを指差す。その動作を真似するように、トリナも自らを指差した。

「トリナ、これ」
「うん。トリナはこれ。ねぇ、トリナはどれ?」

二度目に問われて、トリナは少し間を置いたあと自らを指差した。

「トリナ、これ」
「うん。よくできました。じゃあ、次は着替えだね。ボタンは留められるかな?」

にこにこと上機嫌で笑い、ハンジはトリナの服を脱がしにかかった。それは、もう幾度となく繰り返された、よくある出来事。ただ、イルゼには見慣れない異様な出来事だった。


ハンジが実験をするため、トリナは午後から一○四期生との合同訓練に出席した。したがって、エレンの再試験の場に立ち会うことはなく、昼食もハンジと共に摂る。その後、ハンジを振り切る形でイルゼとトーマに連れられ、訓練場に入った。

「いいか貴様ら!これから行うのは、対人格闘訓練と呼ばれるものだ!」

教官が声を張り上げる傍ら、トリナはイルゼと共に立たされた。その表情はいつも通り、感情も意思もない虚ろなものだ。

「兵士が戦うのは巨人だけではない。憲兵兵団、駐屯兵団に所属する者は、壁内の治安維持の為に人を相手にする事もある!」

憲兵兵団、駐屯兵団と聞いた瞬間に兵士の顔色が変わる。特権欲しさに入隊した彼らは、そのどちらかに配属されたいと望んでいる。影響する科目は絶対に高得点を取らなければならないのだ。

「これより木製の武器を配る。隣の者と二人一組になり、武器を受け取った者は攻撃する側、もう一人は攻撃される側となる」

同時に、訓練兵団の兵士が木製のナイフを二人一組の右側の列に配る。渡された兵士達の顔に浮かんだのは、まず困惑だった。大半の訓練兵は、武器を持って殺し合ったことは愚か、喧嘩した事すらない。
地下街のような治安の悪いところは別だが、壁内で人が争うことは殆どない。壁内という閉鎖的な空間において、対立は好ましくないからだ。子供も、幼少時は多少喧嘩しても、分別がつくに従い意図的に争いを避けるようになる。

したがって、心得をもつ訓練兵は殆どいない。キレのいい動きや重心の移し方、武器の使い方など知る筈もない。その状態で武器を渡されても、それをどう使えばいいのかもわからない。それは教官もわかっており、あからさまな溜息のあと言葉を続けた。

「壁内でぬくぬくと育ってきた貴様らに出来るとは思えん。これより模擬戦を見せる!」

宣言を聞いた瞬間、イルゼとトーマの顔から血の気が引く。今までの流れからして、その模擬戦はトリナに行わせるだろう。しかし、トリナはリヴァイしか相手にならないくらい強い。その上、手加減や手心を知らないので、全力で殺しにかかる。トリナにとって攻撃とは殺すためのものであり、それ以外の目的をもたない。

そのため、訓練でも実戦でも、『攻撃』命令は『殺害』命令となる。相手が人間であっても同じ、確実に息の根を止めにかかる。平常訓練では息抜き序でにリヴァイが相手をしているため、被害はない。しかし、今この場に彼は居ない。イルゼとトーマはしばし睨みあい、目だけで会話した。曰く。

――お前相手しろ、骨は拾ってやる
――新人より隊長の方が強いですよね、損傷少ないですよね
――俺にはいざとなったら制止するという大事な役割があってだな
――私にも命令係という役割があります!
――俺はまだ死にたくない
――私もです!

平常訓練時の戦いを見ているだけに、二人とも引く気は全く無い。二人が火花を散らすのをよそに、教官は自分の部下二人を呼び寄せた。

「それでは、模擬戦を行う。各自見える位置につけ」

部下二人が、模範となる動きで組み合う。重心を安定させながら武器を避け、相手の隙を付いて武器を叩き落すやり方だ。どちらも動きは決して難しいものではなく、初心者向けにゆっくりと行われた。それを見て、イルゼとトーマはほっと胸を撫で下ろした。重傷になるのは免れた、信頼関係は手遅れだが。

「この二人の動きを真似る事から始めろ。出来るならば各自、動きを加えても良い」
「はい!」
「これは訓練だが遊びではない。相手を殺傷するつもりで攻撃し、殺人犯から身を守るつもりで取り組め。それでは、開始!」

号令と共に、訓練兵達が互いに気まずそうな顔で向き合う。そして、見よう見まねのつたない動きで訓練を始めた。その中、短い黒髪でそばかすのある少年兵が一人、恐る恐る教官に近寄った。

「どうした、ポット訓練兵」
「申し訳ありません。あの、僕の隣が居なかったのですが、どうしたら……」

現在、一○四期生の人数は奇数であり、トリナが入ると丁度偶数になる。教官はちらりとトリナを一瞥した後、訓練兵に視線を戻した。

「トリナ兵卒と組め」
「わ、わかりました。ええと、トリナさん?」

不意に視界に割り込んできた少年を、トリナは無感動に見つめた。エレンやミカサとは違う、不思議な感覚がない人。興味がわかない人だ。

「……だれ」
「マルコ・ポットです。手合わせをお願いします」
「まるこ、……しらない。てあわせ、おねがい、しらない」

知らないと言われて、マルコは眉を下げた。これは組むことを拒否されたということだろうか。もしそうならば、困る。下手をすれば、サボっていると見做されて、教官に叱られかねない。そうなれば評価が下がり、憲兵兵団への道が厳しくなってしまう。
助けを求めてイルゼの方を向けば、驚愕した顔でまじまじと見つめられる。まるで超大型巨人を見たような、驚きと慄きが入り混じった顔だ。

「君、トリナと組むの?」
「はい。あの、なにか……」

反応に不安を覚え、マルコは恐る恐る問い掛けた。しかし、イルゼはさっと視線を逸らすし、トーマは片手で目元を覆うだけで答えない。いっそ敬礼でもされれば明確な危機感も抱くのに、どちらも中途半端だ。

「あの、大丈夫なんですか……?」
「うん、大丈夫よ、ちゃんと止めるから。うん、大丈夫……」

不安要素しかない。それでも評価は欲しいので、マルコはトリナと向き合った。視界の端で、イルゼが笛を銜えるのが見える。マルコは一つ頷き、慣れない武器を手にトリナに襲い掛かった。
笛が、鳴る。
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