心地良く、耳に残る低いテノール。
悠、と呼んだあの男は誰なのだろうかと、何度考えたかも分からない男のことを悠は考えていた。
その夢は不思議なもので、幼い頃から見続けてきた何一つ変わりのない内容だった。そのためか、その夢はいつも頭の片隅に居座り続けている。
どうでもいい、と忘れてしまうようなただの夢。だというのに、何度見てしまうのだから忘れられないという事実は当の昔に諦めてしまった。
なぜ、あの夢はこんなにも自分の中に居座り続けるのだろうか。
それに、果たして意味はあるのだろうか。
 悠は布団の中から時計を一瞥し、重々しくも身体を起した。
くありと欠伸を零し、跳ね上がった髪を手で梳きつつも学生服を手に取る。
カッターシャツに微かに残ったままのしわを親指でなぞり、部屋着を脱ぎ捨て袖を通した。
少しだけ、ぶかぶかの学生制服。
少しだけ、緩めのズボンの腰周り。
少しだけ、ボロボロの学生鞄。
ぽつりと残された、低めのテーブルが置かれた畳みの敷かれた部屋を通り、洗面台の前へ行けばそこにはどこか虚ろな目をした自分がいた。
優しく頭に乗せられた骨ばった、ごつごつとした手の感覚。
ぼんやりと頭の上に残ったままの、"男"が頭を撫でる感覚。
鏡の中の自分を見詰めながらも、なんとなく感覚が残った場所へと手をやり、頭に触れてみる。
全てがリアルに感じられたその感覚が、とても懐かしく、暖かで、自分が求めているものがまるでそこにあるかのような錯覚が、夢の中にはあった。
しかし、今頭に触れているのは自分で、虚しさ以上のものは何も無い。

「全く…仕方ない子だね。」
「全く…仕方ない奴だな。」

あの"男"を見ると、"アイツ"を思い出してしまう。だから、あの夢は嫌だ。

キュッ、
甲高い音を立てて回った蛇口からは例え春だとしても未だ冷たいと感じる冷水が流れ出す。
制服が濡れないようにと注意をしながら顔を洗い、タオルで水を拭き取れば鏡の中には先ほどよりもすっきりした顔をした自分が映った。
昨晩、残ったご飯で作ったおにぎりを冷蔵庫から取り出し、レンジに突っ込む。適当に時間設定をし、ボタンを押せば独特の機械音と共に動き出すレンジ。
今のうちにと居間に置いてあったクシを手にした悠は、鏡の前に立った。
鏡の中の自分は、まだ少し眠そうだと他人事のように思いながらもゆっくりと髪を梳いていく。
一息ついたところで、思い出すのはやはりあの夢だった。
「…違うって、分かってるのにな。」
分かっているのに、どうしても、重なってしまう。

「悠。」
「悠。」
思い出すのは低めのテノールで呼ばれた、自分の名前。

自分が最後に、あんな風に名を呼ばれたのは、いつだっただろうか。
俺は、"お前"を見たら、受け入れられるのだろうか?
誰もいない空間に吐き出されたその言葉は、音も無く吐き消される。

会えば、俺は変われる?

レンジが音を鳴らして、おにぎりが暖まったことを知らせる。
使い終えたクシを洗面台の淵の上に置き、レンジを開けて悠はそろりと手を伸した。

"お前"が本当に存在していたというのなら、俺はもっと、違ってたのかな?

現実味がなさすぎて
(本音は信じたい。)

 
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