もう少しだから、と囁くように口に出されたその声は、とても弱々しいものだった。
そしてそれは暖かくて。優しくて。声を聞くだけで、ほっとしてしまうような、そんな声。
そんな体験をしてしまったのは始めてのことで、頭の隅で浮かんだ彼女の言葉を思い浮かべながらも「なるほど。これが俗に言う"目から鱗が落ちる"というものか」と納得してしまった記憶は、今ではもう古い。
まさか、自分がこのような体験をしてしまうとは予想だにし無かったことなので、仕方あるまい。
 だが、あの時の彼女のその言葉は自分にとっては鮮麗な言葉だったのだ。
だからこそ、体験するまで信じられなかったし、体験してしまった今でも違和感を消せずにいる。
 普段、他人に興味示さない自分が何故興味を持ったのか。

 うち――榊雪詠は冷めた人間であった。
はっきり言って、家族や友人以外の人間だなんてどうでも良いと思っているし、もしそれ以外の者達が不幸な事故か何かで死んでしまおうとも同情すらしない。そんな、冷めた人間だ。――だと、言うのに、だ。
(なにが楽しくて、学校なんかに、)
 彼女にとって、同世代が隔離された場所――学校とは不愉快な存在そのものだった。
人は、特にこの国に住む人間は、自分と違う考えを持つ人物に対して良い印象を持ち得ない。全員が全員、同じ意見を持つことは奇妙で気色悪いことなのだが、それでも彼等はそんな他の意見を持つ極々僅かな人間を否定し、軽蔑し、否とする。
――十人十色?笑わせてくれる。
自ら否定しておきながらなにを言おうと言うのか。
唯一の救いは、そんな自分にすら心配してくれる相手が、心配できる相手が、いるということだろう。
(意味が、分からない。)
何故自分の考えを人へ押し付けるのか。
何故自分以外の考えを理解しようとしないのか。
(本当、気持ち悪い奴等。)
だからこそ、あの体験をしてから不思議で成らなかった。
 皆が皆、そう思っているだろうと勝手に決め付けてしまっている自分が、声だけで感じてしまった安心感。
ほっとするような、心地良い声――
 雪詠は一般的に言われる、"人間嫌い"と言われるものに近しい人間であった。
家族。友人。
家族は生まれた瞬間から時間を共に過ごす共同体であったし、雪詠の友人は他の同級生と違い、一般論や規則に囚われない考えをする者ばかりだった。
だからこそ受け入れられたし、だからこそ、それ以外は受け入れられない。
簡易な答えだ。
少しずつ距離を詰め、接し、共に時間を過ごし、そして最後にやっとのこと友人として受け入れられるゴール。
そこまでの道のりがあったからこそ、認められた。
なのに、そんな自分が、声だけで――?

――そんな、まさか、

 しかも、自分はその人物について全く知らない――初対面と言っても過言で無い相手。
それがもし、この世界に存在しない――架空の人物であったとしても、"夢"であったとしても、雪詠を動揺させるには簡単なことだった。
 人間とは眠っているとき、五感部分である1つの感覚――視覚に休息を与えいる。
その間、他の五感である聴覚や臭覚、触覚、味覚は機能したままだという。しかし、眠っている状態で拒みようのない情報は次々と勝手に体へと滑り込む。
だからこそ、人体は人間に夢を見せて現実から隔離させて休ませようとする。
五感が無い場所へ隔離させたほうが、身体が休まるからだ。
つまり、五感の無い夢へと強制的に追い込み、身体を休ませる。そういうことである。
科学的根拠は無いらしいが、夢を見る理由を未だ解明できていないにしては中々の憶測だろう。
 ――夢には、心に残る根強いものが現れる、らしい。
例えば家族。例えばその日の出来事。
夢とは人物の心を鏡のように映しているという。
 そこで疑問がある。

 何故、榊雪詠は、全く知らない人物が出てくる夢を繰り返し見ているのか。

夢を見ているとき、全く知らない人物が出てきた、というのはよくある話しだ。
しかしながら、雪詠の場合はそう簡単に言えない理由がある。
(――また、だ。)
遡るにはあまりにも遠すぎる話しだ。
事の発端は分からないが、推測するに7年近くの前のこと。
物心のついた雪詠は毎晩、毎朝、それでこそ家での昼寝の時間でさえ、全く同じ夢を繰り返し見ていた。
当時、幼稚園や保育園といったものに通っていなかった雪詠がその異常さに気が付くことは無かった。
周りにいたのは仕事で外へ駆け回る父親と、家で家事をしながらも放任主義を爆発させた母親。そして既に学校へ通う兄達だけ。
 雪詠はいつも1人でいた。
テレビを見たり、絵を描いてみたり、本を読んでみたり。
だからこそ、それが異常だと知るには時間がかかってしまったのだ。
雪詠がそれが異常なことだと気が付いたのは、小学校へ通うようになってからの話しである。
 小学校の低学年の頃の話しだ。
私、今日おもしろい夢見ちゃった!と目を輝かせ身振り手振りで話し、私はこんな夢!昨日の夢のほうが楽しかったなあ、と話しているのを聞いて、雪詠はハタと気が付いた。
自分は、毎日同じ夢を見ている。
なのに皆は、毎日違う夢だという。
言われて見れば、何度か母親や兄に「不思議な夢を見る」と話したことはあったが、その度に不思議そうな目で見られていた。
雪詠はそこで初めて理解した。
自分の夢が、奇妙であるということを。

 しかし、今まで見続けてきた夢は変わること無く、何度も繰り返された。
雪詠は次第にその夢が恐ろしくなった。
じぶんだけ。
その事実が堪らなく恐ろしく感じたのだ。
 そんなとき、たまたま夢の話しを振って来た同世代の子達がいた。
話し終わったときには、彼女達はやはりというべきか不思議そうな、まるで奇妙なものを聞いたような顔をして、一言。
「変なの。」
詰まらなさそうに呟かれた言葉に、雪詠はまるでそこから突き放されたような、そんな錯覚に囚われた。

じぶんは、おかしい。

机の下で拳を握り締め、瞳を揺らす雪詠に彼女達は気付かない。
雪詠は震える体を必死に抑える。その小さな体が、不安と恐怖で押し潰されてしまうと脅えていたのだ。
そんな、雪詠の前にふらりと姿を見せた者が、1人。
少年にも見える容姿を持ち合わせた、不思議な少女だった。
「同じような夢を見てる。仲間だね。」
不思議な雰囲気を持ち合わせた彼女は無表情に、けれども確かに微かな笑みを浮かべていた。
同じ夢を見ている同級生。
仲間が、そこに立っていた。

 2人が仲良くなるには時間はかからなかった。
彼女の名前は氷室悠。
一番上の兄の、友人の妹らしかった。
2人はすぐにお互いがお互いの名で呼び合うようになった。
親友という言葉があるが、そう言っても過言で無い。まさに、そんな仲であった。
 それから歳を重ねた雪詠と悠は、お互いの関係も、"夢"という共通点も変えずに中学生になった。
 中学生になって、1ヶ月と少し。
小学校までの道のりも、格好も違うものの、変わらないものが隣にあった。悠という、親友という存在はそこに変わり無くいた。
いつの間にか自分より幾分も高くなった背は、少々癪ではあったがクールな彼女に似合う、女子にしては高めの身長だと思った。
そんな彼女は、中学へと上がる頃には昔の面影を残しつつも、着実に様々なものを変化させていた。
性格が変わったわけではない。
だが、昔は苦手だと言っていた勉強も、運動も、全てに置いて人並み…いや、それ以上のものへと変化させていた。
大きめだったくりくりとした丸い目は、今ではどちらかと言えば鋭く、声は昔から中世的なほうであったが、今ではそれに加え少しばかりハスキーになったのではないかと思う。
 彼女は、女ながらに女にモテた。
これは余談ではあるが、彼女の性格が男前すぎて周囲の男子は餓鬼臭いと女子達に中々酷な扱いを受けていた。
歳のわりに悠が紳士的であり、落ち着いた性格だったからかもしれないが、初めて興味の無い相手に対して同情してしまった場面である。
 あまりにも本題から脱線してしまったので、話しを戻そう。

 先ほど言った通り、2人は中学に上がっても"夢"という共通点を持っていた。
それはつまり、昔から見ている夢を今でも見ているということであり…大袈裟に言えば、最近ではソレが"悪化"しているようにも感じた。
何が"悪化"しているのか、と聞かれてもそれは"そんな気がする"というだけであって説明は出来無いのだが、前に比べて何かが変わってきている。そんな気がするのだ。
そして、自分が周囲に対する異様なまでの嫌悪感にも、理解し、そして仕方が無いと思い始めてさえいた。
 昔から見ていたその夢は、全てが奇妙なものであった。
顔の見えない相手。なのに心地良いと感じてしまう声と雰囲気。
何故顔が見えないのか、と聞かれてもその疑問は雪詠とて同じである。
分からない。答えはその一言に尽きた。
"彼"の顔は、今まで一度も見たことが無い。
きっとこれからも見えないだろう、と普通なら思ってしまうのだが、何故か、雪詠には根拠の無い自信があった。

「そろそろ見える。」

本当に根拠など無い。だというのに、この自信である。
けれども、雪詠はその根拠の無い自信が嘘だとは思えなかったし、むしろ信じきる他に無いと感じていた。


「本当に、不思議な夢。」

 そして、雪詠は今、まさにその夢の中にいた。
顔の見えない"彼"が何故男だと分かるかも不思議であったが、声の高さと体付きから男だと思ったのかもしれない。
それとも、直感的に男だと…。
いや、"彼"は絶対に男だ。
ここにもまた、根拠の無い自信があった。
「雪詠、」
 "彼"は相変わらず、不思議な人間だった。
本当の意味で会ったことが無いというのに、"彼"ならと安心してしまうし、不思議と名を呼ばれても不快だと思わない。
きっと彼は、素敵な人間なのだろう。
暖かくて、優しくて、自分には無い"何か"を持っていて。
こんな冷めた自分ですらも、きっと受け入れてしまうのだ。
包容力。
まさに彼に相応しい言葉だと思った。
包容力が――人の感情も、喜怒哀楽も、全てを受け入れるような、そんな包容力がある、のだろう。
全てを照らすような、負の感情さえも受け入れるような、それでいて、堂々とそこに立ち、導いてくれるような…。
「大空、」
…過大評価、しすぎてしまった…かも、しれない。
何となく、スルリと、自然と口から漏れてしまった。
それを否定するには手間がかかりそうだ。
あ、え、いや、と言葉を詰まらせる雪詠に、彼は――言った。
「…初めて、気付いてくれたね。」
昔から、何度もこの夢を繰り返し見てきた。
それは変わらない事実であるし、何よりもこの身を持って体験してきたこと。
だが、それでも、こうやって彼と言葉を交わすのは初めてだった。

 "気付いてくれた"?"何に"?

彼はその質問には答えなかった。
答えなかった。けれでも、まるでそれを待っていたかのような――口ぶりではないか。
彼の手がそっと、雪詠の頬に触れる。
びくり、と体を跳び上がらせてしまったものの、やはり不思議と嫌悪感は抱かなかった。
「もうすぐ会えるよ。」
「会える…?」
「そう。」
彼の手が、雪詠の頬を伝って下へと下ろされた。
そして、その手が下ろされた先にあるのは、雪詠の手。
「待ってる。」
「…え?」
その言葉と同時に、彼の手から眩い橙色の光が放たれた。
どこからとも無く風が下から上へと舞い上がり、雪詠の髪を揺らす。
光から目が逸らせない。離すことを許さない。
彼に包み込まれた右手に熱が溜まる。
暖かい。
やっぱり、と雪詠は思う。
雪詠は"彼"を知っていた。
"彼"の事。
"彼"の心。
"彼"の優しさ。
"彼"の暖かさ。
全て、その全てを知っていた。
 だけれども、思い出せぬジレンマ。なんと、腹立たしいことか。
橙色の眩い光がその光の強さを増し、視界が白で染まるかと思ったその瞬間――"彼"によって包まれていた雪詠の人差し指から黄金の光が解き放たれた。
"彼"とは違ってその輝きは少し淀んでいるように感じられたが、素直に綺麗だとも感じた。
人差し指から身体全身に染み渡るよう暖かな熱と冷え切った熱。
矛盾した熱同士ながらも、それはやがて共鳴し、一つの熱を創り上げた。
その熱は、とても心地の良いものだった。
「忘れないで」
「……あ、」
そう言って彼は雪詠の両手を虚無へと放した。
そして襲い掛かる――浮遊感。
気が遠くなっていくのを感じながらも、雪詠は"彼"へと手を伸ばし――空を掴んだ。

 ねえ、----。また会えるよね?

――遠くで"彼"が、笑った気がした。

夢か幻か
(現実だと願う)

 
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