「くっ……そ!」
息を切らして吐き捨てた。
勢いのまま適当な角を曲がる。いつのまにか通路は入り組んで迷路みたいになっているし、曲がっても曲がっても行き止まりは見えない。もう出口がどこかも、自分がどれだけ走ったかもわからない。観客の声なんて、とっくの昔に聞こえなくなっている。
分かるのは、追いつかれたらヤバいということだけだ。
ひたり、ひたりと迫る音。逃げるだけで精一杯。
音は一定を保っていて、こちらは全力疾走だというのに振り切れる気がしない。それどころか音が大きくなっている……追い詰められている気がする。いや、きっと、気のせいじゃない。
足に力を込めて角を曲がる。
同時に後ろを盗み見ると、歪んだ透明な影が見えた。
全身に鏡でも貼ったかのような、写真を雑に加工したかのような、空間が歪んだ“なにか”が、そこにいた。しかも確かについてきて、いや、追いかけてきている。
飛び出そうになった声を飲み込み、足に力を入れなおす。なんだっていうんだ。そもそも追いかけられている理由がわからない。体力もチャクラも限りがある。こんなところで手間取っている場合じゃないというのに。
何度目かの角を曲ると、目の前に壁が立ちふさがった。行き止まり。逃げる場所はもうない。
「お、ちつけっ……」
足を緩めず、壁に背中を預けた。後ろからやられるのは嫌だ。何もわからずに死にたくなんてない。
せめて、せめて、どれだけ怖くても、この目で見てやる。
“なにか”が現れるはずの角に目を凝らしたその時、視界の端に何かがよぎった。思わず目で追う。
白い、羽根?
認識した途端、目蓋が急に重くなった。
まさか、もうはじまったのか。木の葉崩しが。
よりによってこんなところで。
視界に広がる羽根の向こうで、曲がり角付近の空気がぐにゃりと歪む。来た。
透明な影の、人間でいう腰のあたり。鈍く光るクナイに目が惹き付けられる。
と、また、ひらりと羽根が舞った。霞がかったように頭がぼやける。力が抜けていく体を壁に預け、印を組んだ。
「う、…解っ」
体内のチャクラの流れを乱す。乱れろ、乱れろ、乱せ。ぐるぐるとチャクラを回すも、抵抗が強くて上手くいかない。自分の身体じゃないみたいだ。
「く、そ…っ」
ひたり、ひたりと“なにか”が近づいてくるのに、力の抜けた身体はいうことを聞かない。肩の力が抜け、印を組んでいたはずの両手はぶらりと落ちる。
くそ。逃げ出したくて堪らないのに、目蓋までも勝手に落ちてくる。落ちる羽根の間から、歪んだ影がクナイを振りかぶったのが見えた。
「声をっ上げなさい!」
霞がかった頭に声が響き、身体がふわりと浮いた。温かいものに触れた途端、ぐるんと身体の中をかき回される感覚。ふ、と視界が晴れて、遠のいていた音と、指先の感覚が戻ってきた。明暗の差にちかちかと目が痛む。
床に下ろされるとほぼ同時に、キンッと金属音が耳を刺した。次いで聞こえたうめき声に、一気に現実に引き戻される。
すこしぼやけた頭で顔をあげると、歪んだ“なにか”が音をたてて崩れ落ち、姿が──砂の装束を着た忍びが現れた。
「………は?」
一体何が起こったんだ。さっきまで私を追いかけていた影は、目の前に倒れている砂の忍びか?なら、私はなんで助かった?
呆然としていると、けほ、と横から聞き慣れた音がした。辺りを見回すも、誰もいない。
「随分とお粗末な透遁ですね」
でも、この声は
「ハヤテさん…?」
「……ああ、すみません」
瞬きの合間に黒いマントを着た暗部が現れる。一瞬警戒するも、右手で取られた面の奥は見知った顔だった。
「………え?消え……?」
「透遁です。彼が使っていたのと同じ術ですよ。…まあ彼は、あまり得意ではなかったようですが」
言いながら雑に砂忍をひっくり返して顔を確認すると、眉をひそめる。うう、と微かな呻き声が聞こえたので、おそらく死んではいないようだ。
どこからか出した細いワイヤーで砂忍の両手両足を手早く縛る様を、ぼうっと見つめる。
黒い暗部のマントと不機嫌そうな表情が相まって、目の前の人が知らない人のように感じた。幻術を解かれたばかりだからか、なんとなく現実味が薄い。ふわふわする。
ふう、とため息をついてフードを脱いだハヤテさんは、まだどこか不機嫌そうだ。眉間のしわがキツい。
「そんなことより、随分と探しました」
まさかこんなところにいるなんて、と呟かれ、改めてあたりを見回す。
貼られたタイル、壁に設置された便器……… は?便器?
「………ここ、男子トイレじゃないですか」
「ええ。ほら、出ましょう。立てますか?」
「あー、大丈夫、です」
差しだされた手を断って、自力で立ち上がる。なんてったってさっきまでトイレの床についていた手だ。流石に申しわけない。
まだ頭が重いけど、これはすぐに収まるだろう。
「……気分は?」
「平気です。あの、」
「はい」
「ありがとうございます」
「……いえ。とにかく、一度戻りましょう」
失礼、と言われ視界から黒服が消えた。気がつくと体が宙に浮いている。え?
「は、あの、ハヤテさん?」
「ちょっと揺れますよ。流石にこれでは戦えないので」
ふと見ると私を支えているのは右腕。ハヤテさんは左腕がほぼ動かない。もし、敵に出くわしたら、
「私汚いというか!あの、自分で!」
走れますと続けようとした言葉は、突然走り出したハヤテさんのせいで飲み込まざるを得なかった。