息が止まるかと、思った。




























「あ、れ…ストライフ、さん…?」
白いシャツに、褪せた細身のジーンズに、昨日撮影に来た時のスーツ姿とはうって変わって、目の前にはお近づきの品にとわざわざ持ってきてくれた紙袋を片手で持っていたずいぶんラフな恰好に身を包んだ旦那さんが立っていた。
視力があまり良くないのか、銀縁のメガネもかけていて、目を細めながら俺をじぃっと見つめている。そんなに見つめられるとさすがに恥ずかしい。
「ああ、昨日スタジオでカメラマンやってた…」
「ザックス。ザックス・フェア。ザックスで良いよ、旦那さん」
「旦那さんは恥ずかしいからよしてくれ、同じように名前で呼んでくれて構わない」
「じゃあ、クラウドさん?」
「…呼び捨てで良い」
いきなりの展開に頭がついていけない俺の脳味噌が何とか覚醒してフル回転し始める。とりあえずアレだ、お茶でも!
「あのさ、良かったらこれから朝飯なんだけど、一緒にどう?」
きょと、とクラウドが目を丸くさせる。こうして見ると人形のように大きな目だ。でも朝日に透けていて、金糸と蒼碧のバランスがマッチしていてほんとうに綺麗だった。
「でも、いきなりそれは悪い…こちらの片付けも、まだまだ残ってるし」
「そんな細かいこと気にするなよ。これも何かの縁ってことで、お隣さんになった俺からのお近づきのシルシ、ってことで、だめ?」
小首を傾げて俺流おねだりのポーズをとると、クラウドは暫し考えた後に小声で、
「じゃあ、お言葉に甘えて…」
と言って家の玄関へと足を踏み入れた。



















適当にクラウドに寛いでもらって、俺は冷蔵庫から材料を取り出し手際よく切っていく。玉ねぎをみじん切りにしながらふと思った。奥さんと息子は、一緒じゃないんだろうか。
だとしたら、俺はKYにもほどがあることをクラウドにしてしまった。
ちら、とみじん切りにした玉ねぎとウィンナーをフライパンで炒めながらクラウドを見る。左手の薬指には、昨日ははまっていた指輪がなかった。あれ、と思う。
「あ、そういや、好き嫌いってあるか?」
「いや、特には…」
興味なさそうにクラウドが呟く。塩胡椒で味付けて、目玉焼きと海藻入りのコンソメスープ、トーストで焼いたパンをトレイに乗せて、すぐ目の前のリビングへ運ぶ。さりげなくクラウドが手伝ってくれた。
「あんま大したもんじゃねぇけど、これからよろしくな」
「いや、十分だ…」
いただきます、と言って二人で飯を食い始める。
誰かと一緒に朝食をとるなど、実に数年ぶりだった。
いつもはただ適当に作って、流し入れるだけの無機質な食感が。
今はクラウドが隣に居るだけで、全然味が美味く感じた自分が何なのか解らず、それでも何故か嬉しくて。
ただ溢れてくるままに、その素材を噛み締めた。























あれからクラウドと別れて、手伝おうかとも言ってみたがさすがにそれは悪いからと断られた。
そりゃそうだよな。昨日初めて出会った人間が引っ越してきたお隣さんで2回目にしていきなり朝飯に誘うとか自分でも警戒するわ。それなのによく嫌がらず一緒に食ってくれたな。もしかしたらちょっと強引だったかも解らないが、それでも来てくれたってことはこれから仲良くしてくれる気があるってことなのか。
「うっし、良い男」
トレードマークでもある髪を逆立てて、頷く。これをしないと、何だか一日が始まった気がしない。
洗濯機にぽいぽいと洗濯物を突っ込んで回しながら、ベランダのドアを開けて空気を入れ替える。小春日和、という言葉がぴったりな陽気で、俺は大きく伸びをした。先ほどクラウドから貰った紙袋の中を見たら、赤いりんごがたくさん入っていた。今の時期はまだギリギリ食べれる。出身が寒いところの農家なのかな?と思いながらりんごを一つ手に取り、表面を軽く洗って一口かじった。僅かな酸味と甘味が混じり合い、スーパーに売ってる物なんかよりもはるかに美味い!
一人で消費するにはちょっと多すぎる量に、ふと俺は思案する。
ガリリッ。
果汁が溢れるそこを舐めとりながら冷蔵庫の中も再度確認。
お昼前に買い物にでも行こう、方向が決まったところで、俺はもう一度りんごをかじってベッドの上の布団を片手で剥いだ。




















(俺は何をしてるんだろう…)
と、自嘲したくなるくらい、クラウドの部屋のドアを目の前にして緊張し、冷静になっていた。左手には焼きたてのアップルパイ。香ばしいシナモンの薫りが鼻腔をくすぐり、これに落ちない女はいないほど俺は料理に自信があった(逆に俺が料理出来すぎて振られたケースもあるけど)。
とりあえず、さっきからチャイムを押そうとしては引っ込めてを何度も繰り返している。いい加減アップルパイが冷めてしまう。ええい侭よ!と腹を括ってピンポーン、とチャイムを押した。
「…………」
が、反応はナシ。もしや出かけた?と思いつつもう一度押してみる。
だがやはり反応は、ない。試しにドアノブに手をかければ、それはあっさりとガチャリと空いた。
「お、お邪魔しまーす…」
こそこそと音を立てないように入ると、あまり数にしては多くないダンボールがそこここに積み重なっていた。薄暗い廊下を経てリビングに行けば、さぁ、と暖かい風が吹いてくる。
思わず、左手のアップルパイを落としかけた。
乱雑に床に散らかる荷物の中から、比較的大きなクッションに抱きつき、丸まるようにして寝ていたクラウドの姿は、言葉を失うほど綺麗だった。
(ちょ、これ…不法侵入か…?)
でもチャイム押したし、と心の中でごちて、アップルパイをカウンターの上に置いてから俺はクラウドの寝顔を観察するように近くに座った。
睫毛が長い。すっと通った高い鼻に、きりりとした鋭利な眉。シミ一つない肌はある種女性を敵に回すのだろうなと思いながら、じっくりと見つめていた。
ぐるりと部屋を見渡せば、最低限必要な物は出し終わっているようだった。それにしても殺風景な部屋だった。女っ気がまるでない。
ふとベッドルームに足を踏み入れて、ワークデスクらしい机上に飾ってある一枚の写真立てを見つける。それを手にしてみれば、デンゼルと、奥さんと、クラウドの三人、笑い合っている家族写真だった。
けれどもクラウドは、どことなく寂しそうな表情に見えた。
一見幸せそうな家族に見えるのに、何かある。そんな陰を漂わせている、クラウド。
写真を元に戻して、その隣にある指輪のケース。嗚呼、気付かなきゃ良かったと思っても遅い。きっと中には、この間左手の薬指にはまっていた結婚指輪があるのだろう。
部屋の殺風景さを見て納得する。クラウドは、独りでここに住む気なのだと。
何故、どうして。と純粋な疑問が頭をよぎったところで、俺はかぶりを振った。
(他人が入りこんで良い領域じゃ、ねぇよな…)
今までこんな風に他人に興味を持つこと自体ほぼ皆無に等しいというのに。どうしたんだ、俺。
「う…」
ふと、クラウドの呻きが聞こえた。それにぎくりとして、そっとクラウドへ近づけば、苦しそうな表情で、クラウドは胸元を押さえていた。
「…あ、…ぁ…っ」
手を伸ばし、それは誰かに縋るような弱々しい力で。俺がその手を掴めば、そっと、抱きつかれて。
「………っ、…ス…」
誰かの名を呟き、苦しそうに呻くクラウドは、あまりにも儚くて。俺は一瞬正気を失いそうになり、弱々しくも掴んでくるクラウドのてのひらに自身をそっと重ねて、柔らかな金糸へと口づけた。
「…ザッ…クス?」
今度はちゃんと俺の名を呼び、クラウドの瞳がうっすらと開かれる。その目の光に安堵し、大丈夫か?と声をかけた。
「アンタ…なに…して…?ここ、俺の部屋…」
記憶があやふやな割には痛いところを突っこまれ、内心テンパってるのを隠しながら、
「アップルパイ作ったから一緒に食おうと思って持ってきたんだ。そしたらクラウドが倒れてて、苦しそうだっからさ。勝手に入ってごめんな」
と、表面を何とか繕った。クラウドはそうか、すまない、と淡々とした様子で、ふらりと立ち上がる。よろけて、俺は慌ててその背を支えた。
「…大丈夫だ、少し立ち眩みがしただけだ…」
顔色は決して好いとは言い難いくらいに青白い。とりあえず床に座らせて、キッチンに水を汲みに行くも、肝心のコップが見つからない。キッチンの近くに置いてあったダンボールを無理にこじ開けて、何とかコップを発掘する。衝撃緩和材を取り払って軽く濯いでからコップ一杯に水を汲んだ。
クラウドに手渡せば、流しこむように一気にクラウドが飲み干す。
「…すまない、早速迷惑をかけた…」
「良いって、気にしてねぇし。それに、何か疲れでも溜まってんじゃないの?顔色悪いぜ?」
「…そう、なのかな。確かに、仕事ばかりで、あまり食事もまともにとっていない…」
「だからそんな細いのか?ダメだぜ、もっと食わなきゃ一人暮らしなんてやってけねぇよ。ていうか、さ…」
「?何だ…?」
「や、その…昨日、」
「昨日?」
俺はしどろもどろになりながら、言葉を探す。訊いて良いものか否か。や、普通はダメに決まってる。でも、気になる。純粋な好奇心か、そうでないのか、自分でもよく解らないが。
頭をガリガリと掻きながら、俺は小さく紡いだ。
「昨日、奥さんと子供と、一緒で、指輪もしてたし、その…一緒に、此処に住むのかと思っていた、んだけど…」
「ああ、そのことか」
あっさりと、クラウドは頷いた。コップを適当に棚の上に置いて、ベッドルームへと向かうクラウドの背中を見つめる。写真立てを手にしながら、クラウドは儚げに笑った。
「ティファとは、もう2年も前に離婚してるんだ」
























予想通りの回答に、俺の頭の中に教会の鐘の音が響き渡る。
その答えがクラウド自身の口から出てきたことに喜んでいるのか、だとしたら何故自分は他人の不幸を喜んでいるのか。
二人の自分が居て、良かったな、いやダメだ何てことを訊いたんだと、誉める自分と叱咤する自分が居る。
よく、解らない。
解らないが、これだけは思う。
もっと、この男を知りたい。
今までに抱いたことのない欲求だった。
そしてこれは理性じゃどうにもならないと、本能で悟る。
小さく笑いながらも目を臥せるクラウドに、荷物整理、手伝うよと、人なつっこい笑みで俺も返してやる。
拒絶の言葉はなかった。
じゃあお言葉に甘えて、と狡猾な笑みを作って、そこのダンボール開けて棚に入れてと早速指示を出される。
結局夜中近くまで居たが、それ以上その話題をすることもなく、かといって会話に花が咲くこともなく。
互いに必要最低限の会話をしながら、片付けはあっという間に終わった。





















もう離婚してるんだと云ったクラウドの蒼碧は、慈愛よりも哀悼の眼差しだった。
そして縋るように伸ばされた手は、俺じゃなくて違う誰かを求めてた。
きっとあの黒髪の奥さんじゃない誰か。
当たり前だけど俺が知らない、クラウドをよく知る人。
歯車が少しずつ歪み始める。
俺は自室に戻った後、目を閉じ思い出す金糸と蒼碧に、自然と笑みを浮かべていた。



















(何も知らないお前を知りたい俺は、きっと世界一の欲張りもの)








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