the Noah's ark‐06 

数冊の絵本を抱えて、お母さんは戻ってきた。どれも開かれた様子のない新品である。カラフルな色使いのものから、しんしんと降る雪のように物静かな絵柄のものまで、両手に抱えるほどの数がある。

「もし、あなたがこの世界で育つのなら、と思って買っておいた本なの。どうしても、捨てきれなくて…」

重たい音を立てて、テーブルに置かれた絵本。一冊手に取って開いてみる。
シンオウ神話、と描かれたそれは、冷たい雪が優しく暖かい絵柄で表現されていて、見ているだけでほっこりとさせてくれた。描かれているものは、絵本だからとても簡素で、かつ分かりやすい。あくまで物語だから、すべてをそのまま知識として吸収するわけにはいかないけれど、この世界になじむためにはぴったりだ。

「ありがとう!琳太、一緒に読もう」
『ん!』

話が一通り終わったとのことなので、マグカップを流しに置いてから、琳太と一緒に自分の部屋があるはずの階に向かった。
えっちらおっちらと、自分の身体には高すぎるであろう階段を、琳太は頑張って上っている。その様子に、ふふっと笑みが零れた。
家自体の構造どころか、内装までもがそっくりそのまま同じだと確信した。
…ただし、床のウサギ柄のじゅうたんがウサギの姿のポケモンの柄になっていた。教科書などの学習用具、地図などはさっぱり見当たらない。

わたしは向こうの世界に存在していなかったことになっている、らしい。正直ショックだった。友達がわたしの行方を心配をする、ということがないのはいいけれど、もう二度と会えなくなってしまったから。
でも、ひとつだけ向こうの世界を思い出させるようなものが、あった。

机の上に置かれたそれを琳太に見せるためにそっと床に置き、箱をあけた。

『…なに?』
「フルートだよ。笛、なの」

金属製だが木管楽器とされるそれを手早く組み立てて、ウォーミングアップのつもりで軽くスケールを吹いた。メロディーがわたしの頭の中に残っているから、これは向こうの世界とこっちとを繋いでくれているような気がして。未練がましいと言ってしまえばそれまえだけど、でも、寂しいんだから仕方ないじゃないか。

琳太は一瞬びくりとしたが、その後は黙って音色に耳を傾けているようだった。
そんなに真面目に聴かれると恥ずかしいな。

『ん、いい音』
「え、あ、ありがとう。見た目も綺麗でしょ?」
『ん…?』
「うわ!ダメだよかじったら!」

ぱかりと口を開け、琳太がフルートをくわえようとしたのであわてて引っ込めた。琳太、視力が悪いから、時々こうしてモノを口にくわえて確認する習性があるみたい。うっかりかじられて傷をつけられては困る。

「楽器はかじるものじゃないよ」

片手にフルート、もう片方に琳太。さわさわと頭を撫でてやれば、琳太は嬉しそうにすり寄ってきた。その温かみに安堵すると同時に、どっと疲れが押し寄せてきた。フルートをケースに仕舞い、机のサイドに掛けた。教科書がなくなったおかげで空いたスペースに絵本を入れたところで、瞼が重たくなってきた。重力に従って、ベッドに転がる。ばらりと肩辺りまである髪が、シーツに無造作に散らばった。脇腹辺りの布団が沈む感触がして、琳太もベッドに上がったのだと悟る。

「ねぇ、琳太」
『ん?』

本当にわたしについてきて、良かったの?
眠たげな自分の声が、ぽつりと部屋に放たれた。わたしの顔のすぐそばに来て、枕に顎を置いた琳太。ふたりの頭の重みが、枕をへこませる。琳太の頭に置いた手が、なでるものではなく、力なく置かれる形になってしまった。重たいだろうに琳太はそれでもぐるぐると軽く喉を鳴らして喜んでいる。
答えはいらない。もう、それだけで十分だった。ゆっくりと視界が狭くなっていくのを感じて、瞼をこじ開ける。幸福感にのしかかられて、瞼が重たい。

「琳太のことも、もっと教えてね…」
『…ん、わかった』

わかってるんだか、そうでないんだか。後者のような気がする。わたしの手にすりよったままうとうとしている、あどけない子供のドラゴンは、覚束ない返事をした。
かくいうわたしも、もう抗えない眠気に包まれているわけで。完全に瞼が閉じてしまうその瞬間まで、考え事が止むことはなかった。

勉強しなきゃ。今までみたいに三角関数とか、修辞法とか、イディオムとか、そういう勉強じゃなくて。
この世界のシステムや、ポケモンについて。すべてゼロから学ばねば。特にポケモンのことについて。ポケモンバトルを基本というものは、響きからしてあまり良い印象はしないけれど…この世界では大切なものなのかな。まあ、そこはお父さんたちに聞こう。
本や図鑑を、それこそ今までぼんやり眺めては大して頭に入れることもせずに忘れていた資料集とは違い、しっかり読んで知識を吸収しなきゃ。

きっと少し若返ったから、脳みそもちょっとくらいフレッシュで知識も入りやすいかな…?なんて、ちょっと期待してみた。

向こうの世界から不本意ながらこちらに飛ばされて、もとい、戻って来たことは否めない。でも、目下の悩みはこの世界を生き抜く知恵と…あと、生活力。旅なら自炊だったり野宿だったりがあるのかもしれないし…。あ、もうだめ。眠たい。

背中に温かいものが被さった気がしたが、それが何かを認識することなどできはしなかった。隣の小さな寝息を頬に感じながら、わたしの意識は緩やかにほぐれていった。




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