the Noah's ark‐02
「え、と、まあ、空気がきれいだねってこと!わかる?」
『それは、わかる!空気、きれい……あ、ヒトいる、』
「いや、ちょっとあの人は無理かと」
前方を一人の男性が歩いている。琳太は視力があまり良くないらしいので、どのくらい見えているかはわからないが、わたしは首を横に振った。琳太が訝しげに見上げてくるけれど、あの人に話しかけるのはご遠慮したい。
男性のお顔は今まで見たことがないほどの美形だったが、それを粉々に打ち砕くほど目付きが悪かった。
紅い瞳は親の敵でも見るようなそれこそ般若の面、ツンツンした灰色の髪はその険しい表情をさらに引き立てるのに一役買っている。
俺は今すこぶる機嫌が悪いんだ話しかけるな近づくな近づいてみろ張り倒すぞクソガキ、というオーラを惜しみなく振り撒いている男に好んで話しかける人間がどこにいようか。
「ちょっと…別の人、探そうか」
『……なんで?』
「何でって…恐いからあの人!」
琳太にはそのオーラが見えないらしい。平和だね君は…!
のどかな田舎に似合わないほどにかっちりスーツを着こなしているその人は、わたしを見るなりまっすぐこちらに向かって来る。
もたもたしているうちにその人はわたしたちの目の前までやって来てしまった。
見下ろされて、涙腺が決壊しそうだ。紅色の瞳がスウッと細められる。
足元では琳太が『訊かないの?』って顔してるけど、わたしの家の住所なんて尋ねてる場合じゃないでしょ。
冷や汗が流れる音、血の気が引く音。今ならどちらも聴ける気がする。
「…リサ、か?」
そんなこと、彼が呟いた言葉で吹っ飛んじゃったけど。
ゆうるりと彼の瞳が細められて、もう一度、「リサなんだな?」と言われた。今回は疑問ではなく、確認。
手袋をはめた男の右手が優しく壊れ物を扱うかのようにわたしの頬にそっと添えられる。
さっき見えてた負のオーラなんて、もうどこにもなかった。見知らぬ土地の警戒心が、余計に彼を怖く見せていたのかも。
カアッと自分の顔が赤く染まるのがわかる。眉間のしわさえなければ、完全なる美男子だ。
「え、あ、あの…」
「…会いたかった」
「……んむぐ!!」
ぐい、と手を引かれて次の瞬間、わたしの顔は彼の胸に。抱きしめられていることで、破裂しそうなくらいに激しく心臓が脈打つ反面、トクン、トクンと規則正しい彼の鼓動に安心する自分がいた。
一瞬だったかもしれないし、長い時間だったかもしれない。そんな抱擁が終わると同時に、もう一度顔をのぞきこまれた。うわ、かっこいい…!じゃなくて、今度はちゃんと訊かなきゃ。
「あ、の…」
「ん?」
「だ、誰…ですか……?」
ぱちくり。彼は紅い瞳を一度瞬かせた。それからああ、と納得するふうでうなずく。もしかして、泉雅さんの言っていた口うるさい男とは、彼のことだろうか。
「家に行こう。話はそれからだ」
「あ、ありがとうございます」
踵を返して歩き出した彼のあとを追おうと琳太にアイコンタクトをした。そしてさっきの質問に答えてもらっていないことを思い出す。
「あ、あの…名前教えてくださいっ」
広い背中に言葉を投げた。男の人は一瞬立ち止まってから、薄い唇を開く。
「…冥斗、だ」
程なくして連れてこられたのは、あっちの世界と全く変わらない赤い屋根の我が家。帰って、来られたんだ。自分の家に。家ごと丸々この世界に移動したのだろうか。あの少女ならやりかねない気がした。
冥斗さんは、感傷に浸っているわたしを後目にノックもせずドアを開け、入っていってしまった。遠慮も礼儀もあったもんじゃない。
「え、ちょ……!」
『リサの家、入る?』
「う、うん、入る入る」
入るも入らないも何も、ここはわたしの家である。閉まりかけたドアをあわてて再度開き、琳太を入れてから後ろ手にドアを閉めた。家のにおいを肺いっぱいに吸い込むと、不思議と落ち着いてくる。玄関も、それに続く廊下も全く変わらない。ただひとつ違うのは、
「あがらないのか?」
「あ、あがります!」
冥斗さんが当たり前のように我が家にいること。勝手知ったる我が家と言わんばかりだ。お母さんの、知り合いなのだろうか。ぶかぶかの靴からぽいぽいと足を抜いて、琳太の足をタオルで軽く拭いて。リビングへと歩き出した冥斗さんを追う。
リビングへのドアを開けて、冥斗さんは待ってくれていた。意味有りげな笑みをたたえながら。
「妻を紹介しよう」
開けられたドアから何かが飛びだしてきて、抱きしめられてからそれが女の人だとわかった。安心する匂いに包み込まれる。
「リサ…!」
耳をくすぐる聞き慣れた声。たまっていた何か、不安とか恐怖とか嬉しさとか、そういったごちゃ混ぜになった感情が一気に涙となって溢れだす。ぎゅっとその背に腕をまわした。
「お母さっ…」
やっと、やっと知ってる人に会えた。それも、一番身近で、会いたいと思っていた人に。今日のわたしは泣いてばっかりだ。
長い抱擁が終わり、有り余るブラウスの袖で涙を拭う。お母さんの顔をしっかりと見て、そこで初めて異変に気づいた。涙でぐちゃぐちゃの視界でも気付けるほどの、異変だ。
…確かにこの人はお母さんだ。わたしのお母さん、なのは間違いないんだけど。
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