ソレデモシタイ [1/1]
減らないのよ、ボディソープ。
アタシの心が減っていくだけで。
ソレデモシタイ---------------
あなたはけして、使わないの。
アタシの好きなボディソープを。
「起きろ……おい起きろname。」
今日もあなたは無味無臭の男。
そうやっていつも決まった時間に、正しい愛を抱きしめに帰る人。
『っ…ん……あぁ、もうこんな時間……』
揉みくちゃになったシーツとアタシと、そんなものとは既に対照的となってしまった彼の姿。
ごく限られた肌着だけで這い出せば、アタシは彼を見届けるため、玄関のきわに寄りかかる。
『大変ね、未来の亭主さんは。』
「その言い方はやめろ。」
『今日もお宅の旦那ご馳走さまって、彼女によろしく言っといて。』
「お前はいちいち勘に触ることを言うな。」
『あっそう。なら勝手に帰ればいいじゃない?いちいち突っかかるアタシのこと、起こさなくったって。』
すると彼はおもむろに、背後のアタシを振り返る。
くたびれたままのアタシを上から下までなぞった視線が……少しだけ眉を寄せれば、再びこちらと焦点を合わせる。
「鍵は閉めろ。物騒だから。」
『………はいはい、まったく……』
彼が扉の向こうに消えてから、言われた通りに鍵をかける。
ガチャリ、と錠の落ちる音を聞き届け、ようやくカツカツと機敏な足音が遠ざかっていった。
『……こーんな痴女の心配より、まずは自分の身を案じたらどうなのよ。まったく……』
本命を裏切り、気づかれぬよう隠れた密会を繰り返す。
でもこの先どうあがいても彼はアタシに転ばない。それが浮気というものの末路なの。
(さてっと、アタシもお風呂お風呂……、)
……本命彼女もアタシも、本当のところ彼に騙されてるだけ。
それがイタチという賢い男の選択でもある。
シャワーの痕跡だけが残るお風呂場で、アタシはボディソープに手を伸ばす。
途端にローズマリーの香り一色が、この狭い空間を取り巻いた。
―――でもね。アタシはあなたをずるい人だとは思わない。
人は誰しもそうやって、悪い自分と上手に付き合っていくものだから。
『あなたみたいな真面目チャンほど、どこかで自分の悪い部分を解放しなきゃいけないのよ……。』
だからアタシは、そんなあなたと戯れることを選んだの。
あなたの悪い部分と付き合っていく悪い女でいることを、ね。
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「スペック……?」
『そ。だってあなた、モテるでしょう?』
「それがどうした。」
『否定しないのね……なら聞かせてよ、他の女のスペック。普段からあなたが、アタシ以外のどんなアバズレに言い寄られてるのかって、』
『気になるじゃない。』そんなことを付け足せば、彼は半ば呆れたように息をつく。
ベッドルームにある木椅子に腰かけ、オレンジのライトに照らされた彼は。また手元の本に視線を戻す。
「体の遊びはお前だけだ。」
『……!』
期待もしていなかった返答なだけに、アタシは思わず顔の表情を崩す。
幸い彼は、本に夢中で気づいていない。
―――あぁ、また彼にそんなことを言わせて。そんな言葉ばかりを吐かせて。
アタシは自分を余計逃げられなくする。
ゆっくりと彼の背後に回れば、その肩から胸元にかけて手を滑らせる。
予感するようにこちらを向いた彼に、そのまま情緒に流されキスをした。
しばらく経って離れた唇を、離れがたいもののように啄めば……アタシはにこりと微笑みを向ける。
『うれしい……。』
そこからようやく情事の開演。
何故なら彼は、けして自分からは誘わないから。
その理由は、本命に対する後ろめたさが残っているからだって検討もつく。
『……恐いの…?』
「………何が。」
『んーん、こっちの話……。』
……でもそれで、いいの。
アタシは悪い女なんだから、彼をたぶらかす悪い女でいればいいのよ。
彼はあくまで、アタシにたぶらかされただけの被害者……それでいいの。
アタシはそれでも、あなたとシたい。
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破綻をきたすっていうのは、まさにこのことなんだろうって思うわ。
「ぐすっ……近頃様子がおかしいと思ってたら、こんなことって……っ!」
涙ながらに顔を覆う、本命彼女の泣きじゃくる姿。
現場は恒例と化したアタシのアパート、抑えられたのはいつもの冒頭のキスシーン。
(さてさて、どうしたものかしら……。)
アタシは絡めていた舌を離せば、ハァ…とだけ息をつく。
とりあえず立ち尽くしているのもなんなので、ウェットティッシュを一枚引き出し、彼の口許を拭ってやる。
そのとき不穏な眼差しで、彼はアタシをジッと見下ろしていた。
(……馬鹿ね……そんな心配しなくてもわかってるわよ…。)
アタシはちょっとだけ笑みをこぼすと、本命彼女に向き直る。
『彼、むかしは塾の講師をやっていたの。』
「うっ……へ…?」
『大学生時代のアルバイト、だったかしら。アタシはそのとき、生徒として彼に教えてもらった縁がある。で、それが近頃偶然に再会しちゃって。』
「おい、」
『何の警戒もない彼を引き入れて、アタシがここで襲ったのが事の始まり……あぁ、それと誤解しないでちょうだい。アタシは別にあなたの彼に惚れたわけでも何でもない、ただ相手が欲しかったの、でもそれも今日で終わりね。』
口を挟もうとした彼の肩を突き飛ばし、明らかな嫌悪を示せば……ほら。
でっち上げた作り話が、もう真実味を帯びてくる。
『あなたもボーッと突っ立ってないで。可愛い彼女に慰めの一つでもかけてあげれば?』
「……っ…お前はそれで、」
『“あら、知ってるでしょう?それ以外にも、アタシはあなたの弱味だって握ってる。だから今日まであなたは抵抗できなかった。”』
「やめてっ!もう聞きたくない……でも、だからってあなたの言うこと全てが信じられるわけじゃない。だって、彼とあなたがこの先会わなくなる保証なんて、」
『浮気とか逢瀬っていうのはゲームと一緒。第三者にバレるまでが楽しいのよ。反対に、バレたらそこで何もかもつまらなくなる。』
「ッ……!!なんて酷い……人の彼氏を何だと思って、」
『はいはいわかったから、もう終わり。聞き飽きたのよそういうセリフ。』
あくまで取り澄ましてみせるアタシは、彼らに背を向け数歩離れる。
再びくるりと振り返ったとき、愛する彼女の隣に居て、彼はアタシに眉を寄せていた。
―――アタシは自信ありげに彼の目を射る。
『アタシはこれくらいのことにはもう、これっぽっちも傷つかない。』
「…………。」
『目障りなの、消えて。』
「……ッ!行こイタチ!!」
彼女が引く手に繋がれて、ようやく彼も遠ざかっていった。
一人残された空っぽの部屋で、アタシは大きく背伸びをする。
『あーあ、おかげで今日はおあずけだったわねぇ。』
そのまま向かうはシャワー室。
蛇口を捻り汗を流すが、当然いつものべとつきはなく、気持ちのいい疲労感もない。
加えて何やらモヤモヤと、胸の内で引っかかっている不自然な塊。
(……この胸のモヤが晴れないのは、単純に情欲が満たされていないせい……?)
そんなの、自身に問いかけるまでもない。
アタシは既に、目の前に広がる解答を知り得ていたのだから。
―――どろりと、涙が溢れ出た。
『じゃあね……アタシの悪い人……。』
こうしてアタシは、あなたと別れた。
“あなたをたぶらかした悪い女”という、華麗なるイリュージョンを残して。
2015/8/4
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参考資料:
『ソレデモシタイ』/平井堅
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