自転車は俺と彼女をのせてぐんぐんと進んでいった。彼女は「ねえ、もう充分だよ。ありがとう、帰ろう?」と言ったけれど俺が彼女を連れてあの日2人で夢を見たネバーランドへ行きたかったのだ。

「人間の赤ちゃんが生まれて初めて笑った時に妖精は生まれて、「妖精なんていない」と言われる度に一人ずつ妖精は消えていくんだって。だから絶対に賢二郎も妖精なんていないって言わないでね。」

と彼女が言ったのはいくつの時だっただろうか。大好きだったあの絵本を夕日がカーテンから漏れる部屋で何度も何度も読み返していたころだったことはとは覚えている。ふざけて「妖精なんていない」と言った日、一晩中君が泣き明かしたと君の母親が話していたことを自分の母親から聞いた時から俺は君が悲しまないように「妖精なんていない」ということはやめた。
幼なじみの彼女は人よりも色素が薄くて、よく人からからかわれていた。身体だって丈夫じゃない。日差しを浴びるとすぐ皮膚は赤くなる。だから夏でも長袖を着ていた。それは子どもの頃は異質とみなされ不必要な差別を受けていた。仲間はずれにされ、笑われた。
それでも彼女はいつだって空想の世界に友達が沢山いて、「大丈夫、いつかピーターパンが私を助けてくれるのよ」なんて言って笑ったんだ。
俺はいつだって彼女を守りたかったけれど、その勇気はもてずにいた。教室で一人、本を読みふけっている彼女を遠くで眺めている事しか出来なかった。それでもたまに、彼女の家に遊びに行って2人で本を読んでいるだけで私は楽しいのと彼女はいった。
いつだって、俺は彼女のピーターパンにはなれなかった。

俺が白鳥沢に行くと決めた時、白鳥沢でレギュラーになると誓った時誰もが口々に「無謀だ」「無理だ」といった。それでも彼女だけが「大丈夫。絶対に大丈夫だよ。」と言ってくれた。それがどれほどの心の支えになったことか。その頃にはさすがにピーターパンのお話を口に出すことはしなかったけれど、だけどいつも彼女は俺とは違う世界に生きていた。

「ねえ、明依ちゃん、引越すんだって。」

随分と中途半端な時期に引っ越すのだとぼんやりと思ったことだけは覚えている。春高が終わり先輩たちが引退した。俺の尊敬する牛島さんが主せ将になったころだ。ちょうど俺は瀬見さんとレギュラー争いをしていて、練習にも余念がなかった。母親曰く、彼女の身体を診てくれる良い医者が見つかったからそちらで治療するためらしいよ、なんて言っていた。俺は冷たくも、これで彼女は普通の生活が送れるようになるのだろうかと安心した気持ちさえ持っていた。今日の夜までは。

夜遅く、部活終わりに家まで帰る。小腹が空いてコンビニによれば見知った顔が所在なさげにぼんやりとしていた。
「よう。」
「あ、賢二郎。部活?」
「ああ、お前は?」
「うーん、ちょっと気晴らし。」
「帰るならちょっと待ってろよ、俺、ちょっとなんか買うから。」
そう言って声をかければ律儀にコンビニの前で彼女はまっていた。
俺は肉まんを買って一口かじって彼女に「食べる?」差し出した。きっといらないって首を振るだろうと思ったのに、彼女は遠慮がちに小さく一口かじって「美味しいね」と笑った。
その笑顔にドキリとして俺は顔が赤くなるのを感じて自転車にまたがる。ぶっきらぼうに「後ろ乗れば?」といえば彼女の重みの分だけ自転車が沈んだ。その重みを噛み締めながら、おれはペダルにのせた足に力を込めた。

「ねえ、賢二郎。」
「ん?」
彼女の頭が俺の背中にこつんとあたった。なんだか少し、遠回りして帰りたい気分だ。
「帰りたくないな。」
「ふーん、じゃあ遠回りするか。」
「いいね」
背中で彼女が笑う。少しだけくすぐったくて口元がにやける。

「私明日で宮城からいなくなるから、最後に賢二郎にあえてよかった。」

横断歩道の信号待ちで彼女は笑ってそう言った。振り返れば笑っていたのは声だけで、目元には暗がりでもわかるくらいに涙が溜まっていた。信号は青になる。俺は帰り道とは反対の方へハンドルを切った。
「そんな急だなんて聞いてねーよ。そんなに身体悪いのかよ。」
「は?」
「お前の身体のために引っ越すんだろ?」
「お母さんそう言ってた?」
「ああ。」
「ふーん。」
「違うのかよ。」
「半分正解で半分嘘だよ。嘘って言うか、足りないの。」
腰に回す手に力が込められた。俺はゴクリとつばを飲み込んで、少しだけ自転車の速度を緩めた。
「お父さんも、お母さんも、最近流行りのダブル不倫ってやつで離婚するからなんだよね。私、おばあちゃんのところへ行くの。」
「なんだよそれ。」
「あと2年だけそこから学校に通ってその後は一人で暮らすよ。お父さんもお母さんも…どちらも私と暮らしたがらなかった…。ねえ。」
俺は言葉がうまく出なかったけれど、それでも「なんだよ」と一言だけ絞り出した。

「ピーターパンも妖精も、ホントはいないってずっとわかってたんだよ。ごめんね。賢二郎。」

きっと彼女の涙は今頬を伝った。
俺は彼女の涙を拭く代わりにどこか遠くへ連れていこうと自転車を漕いだ。
ピーターパンも妖精も、迎えにこないのならば俺が連れてってやる。
二人で夢見たあの場所へ、どこにあるかも分からないけれど連れていってやりたかった。彼女を傷つけるものから遠ざけて、笑って暮らせるようにしてあげたかったのだ。それから二人に会話はなくて時間はとっくの昔に寄り道で済まされるような時刻を超えていてきっと二人の携帯には心配した両親からの着信が山ほど入っていることはわかっていた。

それでも、それでもまだ。
俺は彼女を。


「ねえ賢二郎。もういいよ。明日も部活有るよね。帰ろう?」
「やだ。」
「ねえ、もう充分だよ。ありがとう、帰ろう?」
結局俺は、また彼女を救えなかった。
もう子供でいられる年じゃないくせに、大人にだってなれない。一体自分は今なんなのだろうか。彼女がいったいなにをしたんだ。どうしてこんなに苦しまなければならないのか。

「ねえ賢二郎。」
「…なんだよ。」
俺の目にも涙が滲む。視界がぼやけないように必死で涙を拭った。
「賢二郎なら絶対に大丈夫だからね。これから先、どんなことでも大丈夫。」

そういった彼女のつぶやきを背中で感じながら、ピーターパンを待ち続けた彼女こそがピーターパンだったのではないだろうかと涙を拭いながら思っていた。
もう、僕達はきっとネバーランドには帰れない。
<<>>
戻る