「もう、いい加減僕の方見てよ。」
ずっと気づいてたんでしょ?と耳もとで囁いた彼は私のことを強く抱き締めた。
バレーを辞めてからパッタリと仕事をしなくなった成長ホルモンは45cm差という数字になって私と蛍くんにあらわれた。
見ないようにしていたけれど、もう私のことを「明依ちゃん、明依ちゃん」と追いかけていた可愛らしい月島蛍はいなくて、変わりかけの声で「今度も試合来るんでしょ?」と誘ってくれた少年の月島蛍でもなかった。
彼の手は大きくて、ゴツゴツしていて、ところどころテーピングが巻いてある。細いのにしっかりしている胸板からはよく知った匂いが汗と混じって香ってきてもうすっかり彼だって16歳の男性だということを強く強く私に示していた。
彼の隣は幼馴染だからといって簡単に座れるほど容易な場所ではないということはもう嫌というほど知っている。少し皮肉屋だけど、愚直なまでに努力家だということは彼の周りで生活している人間ならよくよくわかっている。分かっているのだけれど、頭の中ではぼんやりと、私と私の姉と、彼と、彼の兄のことを考えていた。

少し高飛車で自慢話が大好きだったあの子も、少し陰気で不潔と言われた彼も、化粧がケバくて男子贔屓が酷かったあの先生も、体を舐めるような視線でいやらしく見てくると噂の禿げた先生も、みんなが言うほど嫌いだなんだと騒ぐほどでは無かった。
家庭の中であとから生まれたものは一番はじめに出会う他人が兄や姉だという話を聞いたことがある。私はその一番はじめに出会う他人のことを思えば、他の人たちなんて可愛いものだと思えてしまうのだ。

5つ年上の姉。
それが私が一番はじめに出会った他人だった。
記憶を一番昔まで辿っても姉はいつもベッドの中にいた。青白く透き通った肌、腕は細くいつも瞳は潤んでいて、その中から私に悲しげに微笑んでは「明依ちゃんがうらやましい…」と宣うのだ。
そのセリフを聞く度に母や父は「お姉ちゃんが可哀想だからお前が我慢しなさい。」と言う。
お姉ちゃんが遊べないから外に行くのはやめなさい。お姉ちゃんが食べられないからケーキは食べないで。お姉ちゃんが眠れないから静かにしなさい。お姉ちゃんが、お姉ちゃんが、お姉ちゃんが。
そう両親がいうと決まって姉は「明依ちゃん、ごめんね。」と私に謝るのだ。でも知っている。その時の姉の口角が微かに上がっていることを。そのごめんねは、「私ばっかり両親に愛されていてごめんね」のごめんねだ。もうずっと分かっていた。だから私は姉のことが大嫌いだったし、姉も私が大嫌いだった。私は嫌われるようなことをしていたつもりは無かったのだけど、いつか「親の愛だって限りがあるのに、それが妹ができた事で私が愛される分が減るなんて許せない」と言っていた。
つまりは私は生まれてきたというだけで姉の憎悪の対象だった。

そんな私のことを両親にかわって気にかけてくれたのが隣の家に住む月島家の人たちだった。その中でも一番私を気にかけてくれたのは6つ年上の明光くんだった。私はそんな明光くんに憧れていたけれど、憧れが恋に変わったのは6歳の時の運動会だった。
さあ、お昼を食べようという時になって先生から呼び止められた。「明依ちゃんは先生と食べよう?」って。聞けば姉は急な発作をこの場で起こしたらしく父も母もわたしを置いて病院に行ったのだという。悲しくはなかった。いつもの事だから。涙は出なかった。だけど、胸から下げたキラキラの金メダルをただ頑張ったねと褒めて欲しかったのだ。
すると、1つ年下の蛍くんが「明依ちゃんは僕の家と一緒に食べるよ」と迎えに来てくれた。そのまま蛍くんと手を繋ぎ、先生と月島家のスペースへ行くと月島家は暖かく迎えてくれた。金色のメダルも褒めてくれたし、電子レンジでチンしたわけじゃない唐揚げも食べさせてくれた。午後から行う親子リレーは明光くんが私のことを背負って走ってくれた。ぐんぐんと運動不足の大人を抜いて走り抜ける明光くんの背中で、私は生まれて初めて恋に落ちたのだ。
明光くんがバレーをしていることは知っていた。少しでも、大好きな明光くんのそばにいたくて、小学生になった私が幼いながらに考えたことは同じバレー教室に通いたいということだった。
はじめはお姉ちゃんが可哀想だからといっていた両親も私の熱意に押され、わたしはバレーをはじめた。
バレーをしている時は良かった。
なにも考えなくていい。お姉ちゃんのために我慢しなさいだなんて誰も言わない。我慢しなくていいんだ。コートいっぱいに走り回っていい。ボールを追いかけていい。跳んで、投げて。私は最高に幸せな居場所を見つけたんだ。

姉が薬をトイレに流している姿を初めて見たのは、私が小学校最後の大会でチームが優勝した日の夜だった。流れるような動作で、その行為はずっと前から行われていたことを背中で語っていた。
その日はいつもは見に来てくれない両親が試合を見に来てくれて、私も張り切って何本もスパイクを決めた。明光くんも応援にきてくれてなんでも好きなもの買ってくれるって言ってコンビニでアイスを買ってくれたんだ。明光くんと少しぎこちなくなった蛍くんも同じバレー教室だからとかいいながらも最後まで応援してくれた。
きっとあの数時間が私の人生で最も楽しかった時間だった。
薬を捨てた姉は翌日体調を崩した。
「ほんとは昨日から具合が悪かったの。だけど、明依ちゃんの大会だから…」と青い顔をしながら整わない息で私を見ながらそう言った。
父や母は「明依の方になんて言ってごめん。ごめんね、ごめんね。」と震えながら救急車に乗り込んだ。姉は病院に入院して、帰宅した両親の目はこう言っていた。言葉になんて出さなくたってわかる。

「もうバレーなんて応援できない」

それからすぐの事だ。明光くんと姉が付き合ったのは。
「わたしが具合を悪くしたばっかりに、明依がバレーやめさせられそうなの。止めて、明光くん。」と白々しく泣きついた姉。
「バレーができる明依が羨ましい。だって明光君のそばにいられるから。」という台詞がとどめだったらしい。誰から聞いたかって?蛍くんだよ。
わざわざ教えてくれなくてもいいのに、いつの間にか私より高い位置から見下ろしてさ。冷たく言ったんだ。「アンタの姉ちゃん、気持ち悪いね」って。

姉はそれからも度々薬を捨てていたし、
食べちゃいけないものをこっそり食べている姿も見た。
私が見るたびに姉は笑うのだ。
「このこと、誰かにいえば?ねえ、私はアンタが嫌いだよ。アンタのこと、好きな人っているのかな。」と。

世の中は姉の都合のいいように廻っていた。
明光くんから「俺はいつもそばにいられないからさ、明依が姉ちゃんのこと大事にしてやれよ」って言われた日、バレーをやめるって決めた。あんなに大好きだったバレーももう、ただの苦しいだけの行為になってしまったから。バレーやめるって言った日は姉はすこぶる機嫌がよくて虫唾が走ったことを覚えている。

月日は流れた。
この春大学を卒業する姉と結婚したいのだと挨拶にきた明光くん。
詳しい話は知らない。知りたくもなかった。
私は「おめでとう」とだけ言って家を飛び出したのだ。行き先なんか無かったけれど。
バレーをやめた時点で私の居る場所なんてどこにも無かった。近いからという理由で入った烏野高校だって姉の母校なわけだから後悔した。
「病気と戦いながらも真面目で優秀な生徒」の、妹。
私はどこにいても姉の妹でしか無かった。
「お姉ちゃんは元気か?」「姉ちゃんのこと大事にしてやれよ」 姉はいつだって、そこにいてもいなくても私を苦しめる。

「ねえ。」
振り返ると部活終わりなのだろうか。ジャージ姿の蛍くんがいた。私のひどい顔を見るなり「あの話聞いたわけ?」と言ったのだ。
彼は敏い。いつだって物事の本質をわかっているような顔をしていた。その顔が、ひどく苦手だったのだ。いや、苦手だと思い込もうとしていたのだ。
そして今、彼の腕の中にいる。
私はずっと知っていたのだ。彼の好意を。
いつの間にか成長してしまった彼が本気でバレー辞めると言った私を止めた。私の強い意志は曲がらなかったけれどバレーをやめた私からバレーを遠ざけないように、いつだって試合の度に「見に来れば」と誘ってくれたよね。
何回も何回も「もう諦めなよ、明依じゃ無理だよ、兄貴は美人の方が好きだし」なんていってさ。
ほんとはずっと私が傷つかないように守ってくれたのは蛍君だったこと。姉が、悪魔であることを分かってくれていたのも蛍くんだけだってこと知ってるんだよ私だって。

でも諦められないのはさ。
姉が明光くんの他に好きな人がいるからだよ。私は知ってるんだ。姉の主治医。主治医は結婚してるけど姉と関係があることを知ってるの。私は。
ほんとは嘘をついて病院に行ったり、薬を捨ててわざと発作が起きるようにしてることも、明光くんと付き合ったのだって、私のことを苦しめたいという理由の他にその先生の気を引きたかったことを知ってるの。

だからさ、諦められないんだよ。

だけどさ、こんな事言うのも嫌なんだけど姉と私、似てるところもあるんだね。自分の私利私欲のために男の人の人生をめちゃくちゃにしてしまうことを厭わないところだよ。我ながら最低だなって思っている。
私は今、蛍くんの腰に強く抱きついた。体から力が抜けて、蛍くんは安堵の空気を醸し始めた。この腕の中は今いる世界より少しだけ私が楽に呼吸できる世界だ。「僕なら大切にしてあげる」という言葉に「好きだったよ。ずっと。本当は。」と、呪いにも似たその台詞を腕の中で吐けば私を抱きしめる腕の力はより一層強くなるのだ。ごめんね、蛍くん。本当はさ、ずっと明光くんの次に好きだったんだよ。

カフカ様提出
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