その日に向かって電車は走っていることに、電車に乗りこんだ時の俺は気づいてはいなかった。

空気に味はないけれど、都会のそれよりも一刻も早く宮城に戻って吸いなれた空気を吸いたいと思っていた。電車が走り始めるのが先か、それとも後か。意識は深くふかく沈みこんで目を覚ました時にはもう随分と東京からは離れていた。

「あれ?先輩起きてたんですか?」
ちょうどトイレから戻ってくる時、列の一番前に座る先輩の隣はちょうど空席でドキドキする心臓に沈まれ、沈まれと暗示をかけながら何ともないようなふりして横に座った。さっきトイレに行く時に横目で盗み見た時は窓に頭をより掛けて眠っているのかと思った。
「うん起きてたよ。」とにっこり笑う先輩に「何してるんですか?」と問えば「外見てるところ。」と夏の終わりの夕方にぴったりな穏やかな声が帰ってきた。

「みんな寝てる?」
通路を挟んで反対側に目をやれば同じ列の澤村さんと菅さん、一つ後ろに東峰さん。先輩の後ろの席には清水先輩と谷地さん。先輩の席からわかる範囲の人はみんな寝ている。
「2年は全員。1年は月島が起きてるっぽくて、あとは寝てますね。コーチも先生も。」
「そうだよね、疲れたもんね。先生達は遅くまで昨日も飲んでたしなあ。」
俺達は夏休み最後の東京合宿を終えて宮城へ帰るところだ。いつもよりハードな練習、連戦の疲れで体は疲弊し切っていた。電車のちょうど良い揺れに快適な温度。誰だって眠ってしまうだろう。自分だってトイレに立つまでは眠っていたのだ。
「先輩は起きてたんですか?」
「うん、なんかさ、もったいないから寝ないの。」
「もったいない?」
「うん。これが”最後の”合宿なんだなーって。そう思ったら電車の中の事もなんか特別な感じ。」
前はバスだったもんね?と先輩が笑う。

ああ、そうだ。と俺は気づく。
この人も3年生なのだ。

電車は刻一刻と、その日に向かって俺たちを運んでいく。ぼやぼやしていたらあっという間についてしまうのだ。
夏休みが終わればすぐに一次予選がある。まずここを勝ち抜けなければ全国はおろか、因縁の相手にリベンジすることもきっと決勝に待ち構える王者に挑戦する資格も得られない。
負ければまた、この人もあの体育館からいなくなるのだ。
しかし、自分は果たして3年生を1日も長く体育館に引き止めているための戦いに加わるチャンスはあるのだろうか。コートの中に、自分はいるのだろうか。

去年の夏。
俺はコートから、体育館から逃げた。その記憶は未だに後ろめたくてそっと心に影を落としている。あの日逃げた俺を止めた人間も連れ戻そうとした人間もいなかった。
逃げ出して手入れた自由な生活は想像していたより不自由で、逃げ出したかった日々以上に頭の中はバレーでいっぱいになった。苦しかった。
そんな時先輩から「田中と西谷じゃ、私が髪切ったこと気づいてくれなかったんだ」とその一言だけ書いたメッセージが届いた。

はっきりいってあの日体育館に戻ったのは苦しさから逃れたかったことがもちろん大きいけれど、少しだけ邪な気持ちもあった。
少しだけ髪を切った先輩に「かわいいですね」と言いたかったからだ。結局言えたのは「髪を縛ってちゃ田中と西谷はわからないと思いますよ」だったけれど。

俺が何も言わずにいると先輩は「私ね、」と話し始めた。言いたいことがあったけれど、それでも今は少しだけこらえて窓の外の夕焼けを見ながら小さく語り出す口元を見つめていた。
「みんな寝てるからいうけどさ、次の主将は3年みんな縁下だと思ってるから。だから、頑張るんだよ。」
「そんな、まだ予選も始まってないのに先の話とかやめてくださいよ。」
「ふふ、そうだね。でもさ、きっとその日がきたら言えないと思って。泣かないうちに言っとこうかなーってさ。」
俺は何も言えなかった。3年生はみんな分かっている。その日の足音がハッキリと聞こえているのだ。そして先輩や清水先輩とは自分たちの足でその日を遠ざけることは出来ない。静かに待つだけなのだ。

「…縁下がキャプテンのバレー部も見たかったな。」

それは先程より小さな、小さな、消えてしまいそうな呟きだった。

俺はレギュラーじゃない。
1日も長く先輩がバレー部にいられるように勝ちますと言える立場でもない。その機会があるかすらわからない。それでも3年生に、いや、先輩に1日も長く一緒にいてほしい気持ちは誰よりも強いとはっきり言える。

「…いればいいと思います。」
「ん?」
「今のチームは負けないし、春高にもいきます。」
「うん。」
「代が変わっても見ててほしいです。俺の隣にいたら俺がどんなキャプテンになるか見られると思います。」

ひと思いに言ってしまえば、自分の顔は耳までじんじんと熱くなって自分の頬が夕日色に染まっていることが鏡を見なくたってわかる。
俺は急に恥ずかしさの波に襲われてうつむいた。ガタンゴトンとさっきよりも電車の進む音がうるさく聞こえる。いたたまれないような沈黙が二人の間を流れている。逃げだしたくなる。「じゃあ席に戻りますね」と言ってしまえばあっという間に数メートル離れることが出来るのだ。だけど言いたくない。まだ少し、あともう少し。

「…ねえ。」
「なんですか。」
つんつんと俺の方を先輩がつついて、意味がわからないままじっとしていれば窓にもたれていた頭が俺の肩にのせられた。

「…縁下の隣にいたらさ、バレー部じゃなくて縁下のことしか見られないと思うんだけど。」
その言葉に驚いて先輩の方へ体をむけると「ちょっと枕!動かないでー!」といつもの先輩の声がした。けれど顔は、俺と同じ夕日色で耳まで真っ赤に染まっている。

「やっぱ寝る。動かないでね。」
という先輩に「もうあと30分で着きますよ」という言葉をかけるのはやめにした。
電車はガタンゴトンとその日に向かって走っている。先輩も、そして俺も。あの体育館から去る日はいつか必ず来るのだけど、それでもその先も隣にいるためのスタートラインにいま立った。

外を見ればいつまにか見なれた景色まで運ばれてきた。今は少しだけ、東京に戻りたいと思った。


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