「水槽の魚って可哀想ね。」

実験用に用意した魚が不要になった。リンが間違えたのだ。もっと大きな魚が欲しかったのにわざわざ現世まで足を伸ばして購入してきたのは小さな色とりどりの熱帯魚という魚たちだった。
その魚たちが蛆虫の巣にいた頃の自分に重なって処分する気になれず、こっそり家に持ち帰って飾っていた。
静かすぎたこの部屋に、水槽の灯りと機材の音と酸素がブクブクと水面に破裂する音が響く。
決して心地がいい音ではないが、静かすぎるよりはましだったしそんなに嫌いな音ではなかった。

これを彼女が初めて見たということはひと月はここに来てなかったことになる。
首元には真新しい鬱血の痕があった。
着物を脱がせば濃いもの薄いもの、転々と俺のモノだ、オレのモノだと主張するように行為の痕跡が残っていた。
太ももの痣はどうしたと聞ける立場でも無い。
だから「最低限男は選べよ」と心の中で毒気づく。それももうきっと今日で終わるのだろう。

「阿近?お水ー。」
「自分で取りに行けよ。」
そう悪態を付きながらいつもベッドから起き上がり台所に行っている自分が情けなくなった日もある。
冷蔵庫に冷やしておいたペットボトルの水を渡すが彼女は首を振った。
「起きるのいや。」
そうあどけない顔がビックリするくらい妖しく俺に微笑むと俺はため息をついて水を口に含みそのまま彼女の唇に口をつけた。
せっかく冷やしておいたのに俺の体温ですっかりぬるくなった水を飲み下すと「冷たいほうがいい…」と体を起こしペットボトルのをひったくってそれを飲み干した。最初からそうしろよ。

「服着ろよ、どうせ帰るんだろ」の問いに「うん、帰るよ」と答えながらまたベッドに裸のままで寝転ぶ。俺は呆れながらも聞いた。
「で、なんだ?魚がどうした。」
「可哀想だなーって。だってこんな狭い世界しか知らないんだよ?この中にいる魚にしか出会えない。」
「帰る場所も無え、フラフラほっつきあるってぐるぐるそこら中遊び歩いてる回遊魚みたいな誰かさんよりはよっぽどマシだろうよ。」
「わ、ひどいなあ。」

彼女のそれは一種の病気のようなものだと思った方が割り切れた。
彼女は俺のことを好きだという。
俺も彼女が好きだ。でもそれはイコールでは結ばれない。俺の好きと、彼女の好きは根本的に違うのだ。
いつだって誰かの腕の中にいて、それなのにふらりと俺の所へ寄ってきてはまたどこかで誰かに抱かれている。
浮気は病気だなんて言葉があるらしいが、きっとそんなようなものなんだろう。
彼女は言った。誰かの腕の中でしか存在している価値が見いだせないと。痛い方が幸福を感じるし、誰かの傷つく顔をみるたびに生きていることを実感すると。
まあ、こんな風に狂っているもんだから誰とも長く続く様子はなかった。だいたいは1度。多くて4、5回。俺以上にコイツと夜を共にした相手はいない。
興味本位に聞いた問いに彼女は昔こう答えた。 「より優秀な遺伝子を探すのはメスとしての本能だと思うの」って。子なんか産む気はサラサラ無いくせに。



「回遊魚だってさ、」
「あ?」
「きっと誰かのそばにいて、誰かの隣で立ち止まっていたい時だってあるんだと思うんだよね。
でもさ、回遊魚は立ち止まると死んじゃうんだよ。
だからそんな事は夢のまた夢。止まるときは死んだ時ね。それに帰る場所はあるよ?」
そう語る彼女を鼻で笑って俺は黙ってタバコに火をつける。

そんな俺を黙って見つめる彼女と目線が合った時、彼女はニッコリと笑った。
「ちゃんと、ここには帰ってくるでしょう?」
そう言いながら。



「ねえ、阿近。何だかすごく眠いの。今日はここで寝て帰ってもいい?」
「ああ、勝手にしろよ。」
彼女は落ちかけているまぶたを無理にこじ開けようとしながらそういった。
俺の言葉に安心したのか、煙草を吸い終える頃には彼女はぐっすりと眠っていて規則正しく胸を上下させている。安心しきっている寝顔はまるで子どもだ。

俺は台所の小瓶を思い浮かべてにやりと笑った。
一口二口飲めばその効果を充分に発揮するというのに彼女はそれを飲み干した。ペットボトルの中に溶かし込んだ、俺の愛を飲み干した。どうなるかは俺にも分からない。


女なんて掃いて捨てるほどいる。幸い苦労したことだってない。
だけどどうしても彼女がいいんだ。
俺は彼女の足首に重たい足枷をはめ、ベットの脚と繋ぐ。

泳ぎをやめた回遊魚が、結果として死を迎えるとしても、それでも彼女をここに留めておきたい。
誰の目にも触れることなく、俺からの愛だけで生きていけばいい。
こんなどうしようもない女をこんな手段でつなぎ止めようとする俺の方がよっぽど病気だ。

ああ俺も眠い。
目線の端に水槽をおき、耳元でそっと囁いて何も知らずに薄く笑いを浮かべる彼女の唇にキスをする。
そして俺も隣でまぶたをそっと落とした。
水槽だけがこの部屋に妖しく光っていた。



「お前ももう水槽の魚だ。可哀想にな。」
いくじなし様提出
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