キッドが目を開いたとき、周りの景色は極端に変わっていた。寒々しい空。濁った空気。乱立する石造りの建物。硬い感触を伝えてくる石畳。──まったくもってキッドの知らぬ場所であった。しかしキッドは取り乱すようなことはしなかった。それはプライドによる強がりでもなければ、周りの変化を理解できなかった愚かさでもない。
 知っているのだ、グランドラインは何が起きてもおかしくない場所だということを。己の常識が通じない場所、それがグランドラインだ。だからキッドが今すべきことはうなだれることでもなければあわてふためくことでもなく、帰り道を探すことである。来たのだから帰れる。一方通行の道でもあるのなら逆流すればいいだけの話だ。

 そう思って歩き出そうとして、キッドは顔をしかめた。周りからの視線のせいである。暖かそうな格好に身を包んだ連中は、キッドを見てざわついている。この気温の中キッドが上半身を見せるような格好をしているからか、あるいは自分のことを知っているか。
 適当な人間を捕まえて、ここがどこであるか、グランドラインのあの港町に戻れる方法はあるのか、そんなことを聞こうと歩き出す。けれどもキッドと話したくないとばかりに人々は急ぎ足で散っていった。
 キッドは悪名高い海賊である。話しかけようとしているだけで逃げられることがないとは言わないが、それにしても度が行き過ぎている。しかも遠巻きに話している言葉は現地の言葉なのか、全く意味のわからない言葉のようだった。苛立ちがゆるりと立ち上っていく。苛立てばそのまま行動に変換されるキッドは、一暴れしてやろう、という気になって能力を発動させる──ことはしなかった。


「うわ、ユースタス・キッドじゃん。すげ〜」


 初めてキッドの耳へとまともに言葉が流れ込んでくる。その声に反応して振り向いてみると、キッドの目に飛び込んできたのは長身痩躯の男の姿であった。殴れば折れ、蹴れば死ぬかもしれないと思わせるような棒のように細い男だ。年はキッドよりもいささか上だろうが、品のない口調が幼さをもたらしていた。ずれた眼鏡を直しながら、キッドのことを見ている。


「おい、おれのこと知ってんのか」

「わ、びっくりした。声も超似てる。つーか日本語話せんの?」

「あ? 何言ってやがるテメェ」


 キッドが訝しげな視線を送ると、その男は目をぱちくりとさせて数秒の間のあと、「日本語だよ、日本語。今あんたが話してる言葉」とキッドが欲しかった答えとはずれた答えを口にした。じりじりと苛立ちが増してゆく。自分のしている質問に、どうしてこいつは答えないのか。頭が痛くなる、というわけではなかったが、苛立ちのあまり殴りかかりたくなる。
 男はキッドが何も話さないからか、すこしだけ困惑したような顔をして、「えーと、何? どうしたの、キッドのそっくりさん」と訳の分からない言葉を口にした。なぜ、この男は自分のことをそっくりさんだなんて言ったのか。もしかすると偽者にでも会ったことがあるのかもしれない。そう考えながらもとりあえず男の考えを訂正することにした。


「そっくりさんなんかじゃねェ、おれが本物だ」

「えぇ? イっちゃってる? もしかしてヤクでもキメちゃってんの?」

「あァ!?」

「あ、ごめんごめんちょっとたんま。オニーサン落ち着いてツバ飛んでっから」


 これ以上に失礼なことを言う男に掴みかかったキッドであったが、男は嫌そうな表情で顔をそらした。掴みかかったせいか、周りからの視線も声もうるさく、ざわついている。このままでは海軍を呼ばれるかもしれない。面倒なことになりかねないと思ったが、目の前の男をぶちのめすくらいの時間はあるだろう。男はふてぶてしくため息をついてキッドの目をじっと見た。


「やめようよ、めっちゃ目立ってるから警察呼ばれちゃうよ」

「ケーサツ?」

「ん? 警察わかんないの? ヤードだよ、ヤード」

「……ヤードってなんだ」

「だから警さ……え? マジで警察がわかんねーってこと?」


 初めからそう言っているのにどうしてこいつは理解しなかったんだ、とキッドはまた苛立ちを覚えたが、そこでもしかしてと気が付いた。おかしいのは相手ではなく、自分なのではないか、と。相手の口ぶりからしてケーサツというものは誰でも知っている一般常識のようなもので、ここでは知らない自分の方が異質なのだということだ。
 男はやや困ったような顔をして「警察いないとかオニーサンどっから来たのよ」と言葉を漏らした。ということはやはり、知らないということが不自然な地域であるということである。
 頭の中に浮かんだのは、ずいぶん遠くまで来てしまったということだけだ。頭痛の一つや二つくらい平気でしそうなものである。けれどキッドは停滞しているわけにもいかなかった。自分の居場所に戻らねばならない。それだけは確定事項なのだから。


「あ、やべ」


 その声で意識が脳内から現実へと戻ってくる。男はなんとも言えない顔をしていたかと思ったら、キッドの手を振り払い、そしてその手をぐっと握って突然走り出した。見た目に似合わないほど力の強い男は、驚いているうちにぐいぐいとキッドを連れて走り去っていく。抵抗しようと思えば出来たはずだったが、キッドは話のできる人間から離れる意味もないだろうと冷静に考えていた。自分の腕をつかんだ理由も後で聞けばいい。
 一分ほど走って、路地裏に身を潜めたところで、男はようやく足を止めた。意外なことに男はほんのすこしも息を乱していない。それどころか「やべーやべー、警察の世話にはなりたくねーっての」なんて笑っていた。それから男は振り返り、無遠慮な視線でキッドのことを見て、言った。


「本物って言ったけど、本気で言ってる?」

「あ? ふざけたこと抜かしてんじゃねェぞ」

「いやァ、証拠とか見せて欲しいんだけど。なんかほら、鉄くっつける能力でしょ? 見せてくれたら納得するからさ」


 地面に転がっていたナットを拾い上げた男は、それをキッドに渡してくる。キッドは見世物にされているようでひどく腹が立ったが、とりあえず目の前の男を納得させるべきだと本能的に理解していた。手の上に転がしたナットにすべきことは一つ。
 ──「反発」。ナットはキッドが想像していたようにありえない速度で男の顔を目掛け飛んでいった。男はそれを予期していなかったのか、とっさに首を動かして避けたものの、ぎりぎり避け損ね、頬に一筋の傷が出来ていた。


「これで満足か?」


 キッドの問いに、男は唇をひきつらせて「マジかよ」と呻いた。本物だとわからせたところで、キッドは男に詰め寄ろうと思った。なにせ自分を知っている人間だ、帰り方まではわからなくともそれにつながる情報の一つや二つは当然知っているはずである。
 問い詰めようと伸ばしたキッドの手のひらに、どこからともなく手紙が滑り込んできた。どこから現れたのかもわからない封筒を怪訝に思ったが、何かあるのだろうとキッドは手紙を開いて──理解が及ばなかった。


「“一週間、異世界で頭を冷やせ”だァ……?」


 一週間、これはわかる。頭を冷やせ、納得はできないがこれもわかる。しかしながら異世界。異世界とはなんのことだ? この手紙は何を伝えようとしている?
 キッドは今にも握りつぶしそうな顔をして手紙を凝視する。まったくもって理解ができない。異世界。異世界? 異なる世界。異なるはいい、世界とは何を指す? キッドが頭を抱えたくなるほど理解に苦しむそれを前に、けれど男は、ニンマリと楽しそうな笑みを作った。


「なるほどね、ようこそ異世界へ。ユースタス・“キャプテン”・キッド」


 何も、わからなかった。


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