ロシナンテを拾ってくれた男は、チバと名乗った。柔らかく垂れた瞳がいかにも人の良さそうな男である。ぼんやりとその黒い瞳が、以前母が持っていたペンダントヘッドの黒曜石のようだと思った。
 助けてくれた他人は、ロシナンテにとって初めてだった。他人は今まで言われなき暴力を振るう恐ろしいものでしかなかったのに、チバは抱きしめ海軍船に連れ帰って怪我の手当てまでしてくれた。しかも偉いであろうアフロの海兵に掛け合って、ロシナンテを遠征の間船に乗せてくれることになった。その間はずっと一緒にいてくれるという。そうでなくとも味方だと言ってくれた。こんな優しい人は、もういないかもしれない。本気でそう思ってしまった。
 着いていくことを決めたときドフラミンゴのことがロシナンテの頭を過ぎったが、ドフラミンゴには彼らがいる。でもロシナンテにはチバしかもういないだろう。だから、いいと思うことにした。ドフラミンゴのことは、言ってはいけないのだ。


「ロシーくん、おれはちょっと掃除しなきゃいけないから肩車でもしてようか」

「……かたぐるま?」

「お? 肩車知らないかな? よーしじゃあいっちょやりますか!」

「わっ!」


 ロシナンテの脇の下に手を通したチバは、そのままロシナンテを持ち上げて肩の上に座らせてしまった。視界が高くなって見える景色がぐっと広がった。水面までよく見えて、覗いた晴れ間のおかげかキラキラと光っている。


「はいじゃあそのまま頭つかんでてね〜」

「う、うん」


 頭にくるりと腕を回せば、ロシナンテをそのままにチバは掃除を始めてしまった。周りは呆れたような目線や優しい目線を向けてくる。悪意のこもっていない目線だとわかっていても、どうしてか背中がぞわりとしてしまって俯いてしまう。思わずロシナンテが手に力を込めると、すぐ下から心配そうな声がした。


「どうした? 怖いかな? 降ろす?」

「……ううん、大丈夫」


 怖いわけではないのだ。誰も害を加えようなどとは思っていないのはロシナンテにだってわかる。だから、怖くはない。それにロシナンテを見るのは海軍船に子どもが乗っていることに対してだということもわかっていた。決して肩車をしているからではないのだ。降ろされても視線は変わらないだろう。
 そこに少しの間甲板から姿を消していたサカズキが戻ってきた。すると視線が散開する。元よりサカズキという男は怖そうだとロシナンテは思っていたが、サカズキの雰囲気が怒っているように感じたので、皆も視線を向けて突っかかられたくないのだろうとロシナンテはぼんやり考えた。ロシナンテがこの船に乗せられてからまだ一時間と経っていないがそれでも皆のサカズキに対する反応はあまりにも顕著だった。サカズキをまっすぐに見るのは今のところチバだけである。


「あ、サカズキ。子守から外してくれなんて無理だっただろ?」

「……ふん」


 サカズキがロシナンテを疎んじているのは、空気でわかる。でもそれはロシナンテだから、というよりもチバにもそして他の全ての人間に対してもそうだったので、彼の性格の問題なのだとロシナンテは思うことにした。しばらくは一緒にいるのだから仲良くはしないまでも怯えて暮らしたくはないので、サカズキを怒らせないようにしなければならない。


「それで、お前らは何しちょる」

「肩車だが?」

「……」

「あ、サカズキもロシーくんに肩車してやってよ!」

「ああ!? 何故わしがそんなことをせにゃならん!!」

「いいじゃん! 子守命じられただろ? それに絶対おれのよりサカズキのが景色いいじゃん! オーシャンビューじゃん!」


 海に出ているのにオーシャンビューも何もないだろうに、とロシナンテは子どもながらにそう思ったが、何故かチバはとても興奮しているようでサカズキがピリリとした空気を出しても露骨に声を荒らげてもすこしも気にしたふうではなかった。
 だがだからと言ってサカズキがロシナンテを乗せるようなことは絶対にしないだろう。サカズキの顔はそれをはっきりとわからせるほど不快そうに歪んでいる。ロシナンテもまた怖い顔をしたサカズキの肩に乗りたいわけではなかった。
 そのとき、甲板の空気がぴんと張り詰めた。サカズキが現れたときの緊張感とはまた違った緊張感のようだった。周りの海兵は皆敬礼をしていた。サカズキも例外ではなく、船室から出てきた人物に向かって敬礼している。その人影にはロシナンテも見覚えがあった。


「センゴクさんちーっす、どうしました?」

「まだごねているだろうと思ってな」


 甲板で唯一敬礼をしていなかったチバがアフロの海軍将校、センゴクにおそろしく気安く声をかける。あまりにも気安い言葉に、不快感を露にする海兵もちらほらと見受けられて、ロシナンテは身を縮こませることしかできない。危害を加えられることはなくとも、負の感情を暴力とともに受け続けたロシナンテにはその視線だけで十分すぎたのである。
 震えてしまったロシナンテに気が付いたのか、チバの手がゆっくり伸びてきてぽんぽんと優しくその背を叩いた。無意識的に止めてしまっていた呼吸が再開され、ロシナンテはもう少し強くチバの頭を抱きかかえた。


「ちょっとそこの海兵たちー! こっちちらちら見てないでさっさと自分のやることしなさいよねー!」

「なんじゃその気色悪い真似は……」

「やんちゃ男子に文句を言う委員長系女子の真似。ちょっと男子ー、やめなさいよねー、なんとかちゃん泣いてるでしょー、先生に言いつけるわよーみたいな」


 チバのふざけた声でセンゴクが他の海兵たちに仕事に戻るように告げ、視線からはあらかた解放された。ふざけた声を発したとき、あちらこちらからもっときつい視線を向けられたので、チバの印象はあまりよいものではないようだった。一番偉いであろうセンゴクに対しての態度などが原因なのではないかとロシナンテはなんとなしに思った。


「あ、聞いてくださいよセンゴクさーん、サカズキがロシーくんに肩車してくんないんですよー? これ子守放棄じゃないですかね」

「サカズキ、乗せてやればいいだろう」


 と、ここで予想外の事態が起こった。ロシナンテはサカズキの肩に乗りたいわけでもなく、サカズキもまたロシナンテなど乗せたいわけもなく、ある種両者の利害は一致している状況だったというのに、チバとセンゴクの余計すぎるお節介のせいでその恐ろしい提案が蒸し返されたのである。
 サカズキはセンゴクとじっと見合っていたが、思い切りため息をついてチバの方をじろりと睨んだ。その顔は超が付くほどの極悪フェイスだった。間近にいたロシナンテとたまたま見てしまった海兵たちが「ヒエッ」と悲鳴をあげてしまうほどには。
 すぐに背を向ければ、反対側から海兵たちの短い悲鳴が上がる。サカズキはロシナンテを肩に乗せるべく少しだけ腰を下ろした。


「さっさとせんか」

「オッケー。ほい、じゃあロシーくん」


 あ、やめて、乗りたくないです、とは言えなくて震えながらもロシナンテはサカズキの肩に腰を降ろすはめになってしまった。さっきの震えに気が付いてくれたのにどうして今の震えに気づいてくれないのだ、と半分涙目になっていたロシナンテだったが、サカズキが立ち上がると震えはぱっと収まった。
 「……きれい」と素直に言葉がこぼれた。チバには悪いがチバと比べると随分と遠くまで見えて、海がどこまでも続いていることがわかる。そのスケールに圧倒されているうちに、すぐに下ろされてしまった。サカズキの肩の上であったことなど忘れてしまったかのように残念だなぁと思っていると、すかさずチバが寄ってきてキラキラとした目を向けてくる。自分も子どもなのに、子どもみたいだとロシナンテは思ってしまった。


「ねえねえ、どうだった?」

「すごくきれいだった……」

「そっか、よかったね! それにしてもいいなあ、サカズキの見てる景色はいっつも綺麗なのかあ」


 その一言でサカズキの雰囲気がぐっと嫌なものになった。だからと言って怒鳴り散らすようなことはせず、ただただ不機嫌なようなのだ。聞こえていたであろうセンゴクもなんとも言えない表情である。周りの海兵は心配そうに視線を向けてきているが、何もしようとはしていない。
 そして肝心のチバはというと。ばっと上を向いたかと思えば、とてもキラキラとした顔でサカズキを見上げていた。


「つーわけで、サカズキおれもおれも!! サカズキくんの景色を堪能させておくれ!!」


 その言葉で場の空気が一気に弛緩した。予想外と言えばいいのか、怖いもの知らずと言えばいいのか、普通なら考えつきもしないであろうその言葉にロシナンテだけでなく、みなが口をあんぐりと開けて驚いていた。しかし言葉を向けられたサカズキだけは、眉間にこれでもかと皺を寄せて吐き捨てた。


「死ね」

「ストレートな暴言向けられたくらいでおれが諦めると思ってるのか!? ロシーくんも三段肩車やりたいよね!?」

「さ、三段……!」


 ちょっとやってみたい、と思って喜んでしまったロシナンテに、サカズキからのじろりとした視線が向けられるが、暴言もなければ暴力も振るわなかった。きっと、サカズキも根は優しい人なのだろう、とロシナンテは思った。チバも決して悪い人ではないと言っていた。それが真実なのだ。
 チバもサカズキも、そしてセンゴクも。皆が優しくしてくれる。でも、こんなふうに優しくしてくれるのは、ロシナンテがただの子どもだと思っているからだ。天竜人だとわかれば眼差しは激しい憎悪に変わり、優しい手は暴力に使われることになるだろう。だから天竜人だということは隠し通さなければならない。そうすればきっと、この人たちは、暖かで優しい人のままでいてくれるから。


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