ポートガス・D・エースであったはずの男がおのれの手で錠を外した。ごとん、と海楼石の枷が処刑台に落ちる。エースは足元からじわりとその姿を変え、瞬きを一つする間に、全くの別人になっていた。黒の衣服に身を包んだ完璧なバランスの取れた長身の肢体と背筋が凍るほどの美しい顔に烏の濡れ羽のように艶やかな黒髪、そして不潔な血でもぶちまけたかのような赤黒い瞳──惹き込まれる。それを自覚した途端、おのれを恥じた。目の前の人間──いや、悪魔に心を奪われるということは、どうしても許されないことだったからだ。目をそらした私に、くすりと上品な笑いが向けられる。


「なんやセンゴク、海軍のトップが一海賊から目ェ逸らすんかい。情けないとは思わんのか」

「……黙れ、無貌! 貴様が何故ここにいるっ、エースをどこへやった!!」


 声を荒げなければ目の前の男に見入ってしまいそうなおのれを叱咤する。しかしその叱咤は自制には効いたものの、周りには混乱を広げるだけだった。“無貌”。その二つ名が示すものは、ある種の伝説だ。知らないものなどいないはずもない。本来処刑すべきエースがいないというこの事態でさえ相当なダメージを受けるというのに、海軍の総勢力が集まっていると言っても過言でない本陣に、台風の目を招いてしまったようなものなのだ。無貌は飄々とした態度で懐から煙草を取り出して火をつけた。こちらに視線が向くことはなかった。


「答える義理はないなァ。腐れ縁やけど、おどれはわしの友達とちゃうねんで?」

「貴様……ッ」

「ええやん、火拳のエースは捕まらんかった。白ひげもここには来えへん。せやったら世界は何も変化なく万々歳や。いやァ、世界は平和やなァ?」


 何が万々歳なものか。世紀の大犯罪者の息子だとこれだけ大々的に公表しておいて、逃がしてしまいました、などという言い訳が通用するわけもない。変化も当然訪れる。白ひげ内部ではロジャーにやられた奴も多い。仲間割れもあるだろう。世界は海賊王の血に震えあがることになる。──それだけは、避けなければならない。なんとしてもだ。しかしその前に、目の前にいるこの男をどう切り抜けるかを考えねばならない。無貌を知っているものは誰しもがこの男への恐怖を持ち行動を決めかねている。無貌を知らぬものはこの状況をつかみ切れておらず、途方にくれているのだろう。全員が、私の指示を待っている。視線を向け続けていた私のことを、無貌は煙草の煙を吐き出しながら見上げた。


「なんやその目、センゴク、まさかわしとやる気か?」

「……必要ならば、だ。無駄な血を流したくはない」

「おお、よくわかっとるやないか。で、どうするんや」

「エースを、どこにやった?」


 ニタリ、無貌はその整いすぎた顔に悪魔のような笑みを浮かべ、立ち上がる。こつこつと靴を鳴らし、私の眼前に立つ。敵陣の真ん中での振る舞いとは、とてもではないが思えない。無貌が形のいい唇をゆっくりと開く。


「教える馬鹿が、どこにおるんや」


 瞬間、サカズキが右腕をマグマに変え、突っ込んでくる様が見えた。その腕が無貌の腹を容赦なく貫いた。しかし無貌は笑っている。マグマに貫かれて血を吐き出すこともしない身体は、誰がどう見たって異常だろう。サカズキの舌打ちが響く。そして無貌の楽しそうな笑い声も、マリンフォードを蹂躙するように響いた。 こんなものが放送されているかと思うと、世界に悪影響を与えかねん。ここで切ったところで今更もう遅い可能性はあったが、サカズキが相手をしている間に電伝虫を使い部下に放送を切るように指示した。


「相変わらずお前はおもろいなァ、サカズキ」

「化け物め……!」

「せやな。──で、その腕はいつ引き抜いてくれるんや、人間」


 首を狙った無貌の腕をサカズキは避けて後ろに飛びのいた。無貌はニヤニヤと笑うばかりで追撃をしようとはしていない。“無貌”……前時代の伝説、頼みの綱である能力者たちがほとんど役に立たないであろう、規格外の男。勝機あるとすれば、たった一つ。規格外であるがゆえの絶対的な余裕。この姿の時の無謀は絶対に追撃などしない。しかし、それを行うには、あまりにも……!


「センゴク、初めに言うておく。戦う言うんなら、三人は確実にもろうてくで」

「……!」


 三人。それがどういう意味だかわからないわけもない。最高戦力、三大将のことだ。三人で一気にしかければ、多少なりとも効果を得ることはできるだろう。この姿の無貌に重傷を負わせることも、あるいは可能かもしれない。しかし、そのためには三人やこの地に集まった十万人の命を総べてなくす覚悟がいる。──目的をとうに失った無貌は、放っておくのなら、悪さという悪さが耳に入ってくるわけではない。そして、海軍は私のミスにより確実に白ひげを落とさなければならない立場にある。ここで三大将を失うわけにはいかなかった。腹の奥から、息を吸い込む。決断を。
 重い口を開くよりも早く、正義の門が開く。ざわめきが広がる。そのざわめきと共に海賊船の大艦隊が押し寄せる。間違いなく白ひげ傘下の海賊旗ばかりだ。エースは、逃がしたのでは、ないのか? 白ひげには伝わっていない? 無貌の考えている通りには進んでいない、というのだろうか。部下たちが混乱しているように、私も混乱していた。けれど、その混乱は焼き捨てられる。


「──どういうことや」


 ひどく冷え切った声だった。


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