――太陽暦5512年。
高度な文明が時とともに風化した火星で、人々は電気も通信機器もない…自然と折り合った生活を送っていた。
井戸から水を汲み上げ、薪(たきぎ)をくべながら石造りのかまどで諸々の調理をする。
日々の出来事は街から街へ、口伝えで広まったり、途中で根も葉もない噂話に変わったりしていた。
世界各国はほぼ王政で、規模は異なれど各々騎士団を有していたが、それらは「守護騎士団」と呼ばれ、国の治世を守るためだけに存在している。
長きに渡り国同士の争いはなく、貿易により資源を補い合っていた。
セレストの属する王国は規模にして中堅のラッセンブルグ国。
広大な森や湖を有する風光明媚な国だ。
古の伝承では、慈愛の女神が最初に降り立った地だと言われている。
…慈愛の女神とは、かつて世界各地で勃発した争いを防ぎ、恒久の平和をもたらしたとされ崇められている存在だった。
「ふう…」
ギルと離れてから騎士然として回廊を見回っていたセレストは、一つの壁の前で立ち止まると、周囲を見渡してから、そっと歪みに手をかけた。
少数の者しか知らないそこは、壁に見せかけた回転扉で。
セレストは素早く入り込むと、後ろの壁が正常に閉まったのを確認してから、腰を下ろす。
「あら、今日も会えたわね、セレスト」
鈴のような声に、微笑して応えた。
「先程まで鬼隊長に捕まっていました。ようやく解放されたので――花を見に」
足元に広がっているのは、蒼い花の群れ。
――ここは、空と同じ色の花が優しく咲く、小さな隠し庭だった。
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