どうしようかな。新羅風に言うなら、絶体絶命って感じ?





いつも以上の全力疾走のせいで息が切れる。心臓が痛い。脇腹も痛い。ようやく戻ってこれた仕事場兼自宅のドアを乱暴に開けて体を滑り込ませ、大きく息を吐いた。帰ってこれた。ああもう、やっと帰ってこれた。
「ちょっと、なにしてたの?遅いじゃ」
「波江、なにも言うなよ。なにも言うな」
ドアの音を聞きつけたのだろう、怒り心頭で玄関までやってきた助手にストップをかけて、精一杯の笑顔をつくる。これが、今の俺にできるギリギリのラインだ。
「とりあえずお水持ってきてくれない?あと、ちょっと一人にしてほしいんだよね」
そう捲し立てると、波江はとても可哀想なものを見るような目を俺に向け、キッチンへと引っ込んだ。そしてすぐに戻ってきた彼女は、冷えたペットボトルとさっきと同じ視線を俺に寄越し、ドアを開けて静かに出ていってくれた。いいね。賢い女は好きだよ。
薄い水色のキャップに歯を立て、ぐっとペットボトルを捻る。間抜けな音とともに本体から離れた蓋をぺっと吐き出し、からからの喉にミネラルウォーターを流し込んだ。ごくりごくりと鳴る喉の音を聞きながら、床に転がっている蓋に視線を向ける。てらてらと光るチェリーピンクのグロスが目に痛い。あと、俺の頭にも痛い。
「なに?今日って厄日?」
そうだよ、厄日に違いない。だって、見られた。見られた見られた見られた!よりにもよってシズちゃんのクソ野郎にだ!!なんたる失態、いや断じて俺のせいではないけれど。シズちゃんのあの化物じみた、いや違うな、化物そのものな身体能力と、実のお兄様に一服盛るようなあの愚妹どものせいだ。あいつら身内じゃなかったらとっくに消してるよ。
「……どうするか」
あのうろたえよう、確実に俺に気づいたに違いない。なんせクソ忌々しいけど長い付き合いだしね。気づかなきゃさすがの俺でもシズちゃんの頭の構造を心配する。まあ、笑うどころか謝ってきた理由がちょっとわかんないけど。
ああ違う。違うよね。今はそんなことより俺の名誉だ。シズちゃんを口止めするくらい、俺には訳ないことだけどさ。たとえ理由がなんであれ、この俺が頭を下げるような真似すんの?シズちゃんみたいな下等生物に?ありえねえ。落ち着け俺。
構想を練りながら、暑苦しいウィッグに手をかけた。そのまま取ろうとしたけど、すげえ痛い。なに?ピンで止めてるのかこれ?ああそうかい。ずいぶんと手の込んだ悪戯だねえ、クルリにマイル。マジでイライラする。
何本か髪が抜けたのに舌打ちしつつ、ようやく外れたふわふわパーマの黒髪ウィッグを床に叩きつけてやった。全然すっきりしない。当たり前だけど。
「……顔、洗おう……」
立ち上がり、重い足を引きずりながら洗面所へ向かった。静かにドアを開け、足を入れる。いつもはなんとも思わない大きな鏡が、今はすごく憎たらしい。見たくない。見たくないけど、しょうがない。俺は覚悟を決めて顔を上げた。
赤い瞳を隠すためにつけられたこげ茶のカラコン、マスカラとつけまつげのせいでふっさふさにボリュームアップした長いまつ毛、ふんわりと落とされたチークのおかげで薔薇色に染まった頬、少しは落ちたみたいだけど未だにくちびるのうえでその存在を主張するグロス。
「は。はははは。俺ってびじーん」
笑うしかないってこういうことだよね。あーなんかもう全部めんどくさい。顔だけ洗う予定だったけど、もうシャワー浴びよう。うん、そうしよう。いつものコートと、趣味の悪い真っ黒なワンピースを床に脱ぎ散らかす。しかし、ご丁寧にワンピースに着替えさせたくせに、コートはそのままとか。ほんとあいつら意味がわからん。


で、次の日。
相変わらず俺に可哀想なものを見る視線を投げかける波江を無視しつつ仕事に励みながら、実のところどうしたもんかと俺は悩んでいたのだ。何度も言うけどシズちゃんの扱いなんて、俺にかかれば犬の子を躾けるよりも簡単なことだ。九割方はね。なんせ、相手はいつもいつでも俺の予想区域の斜め上にいる男だ。予測不可の事態に陥る可能性がないわけではない。
けれどどんな事態に転ぼうが、俺は俺の名誉を守らねばならない。そのためには、盤石の態勢を整えることが必要だ。そのために、ほんとうなら今すぐにでも池袋に飛んでってナイフで刺し殺したいのを必死で自重してるんだから。
って思っていたんだけど、さっさと殺しとけばよかったのかな。


「……波江、お茶なんて出さなくていいから……」
なぜか。ほんとうになぜか。午後3時を少し過ぎた頃、そいつはとんでもない轟音とともにやってきた。招かれざる客もいいところだ。ていうかさ、オートロックだからって普通窓から入ってくる?ここ何階だと思ってんの?この窓ガラス防弾仕様のはずなんだけど?ねえ、シズちゃん?
「おいクソノミ蟲。俺はよお、てめぇの顔なんざ見たくもねんだよ。吐き気がする」
「窓ガラス叩き割って勝手に来ておいてその言いよう?さすがシズちゃん。ほんと死ね」
「てめぇが死ね。あ、すんません」
「波江、ありがと。もう今日は帰っていいよ、お疲れ様」
いいっつったのにお茶出しやがって!しかもこれ俺のお気に入りで一番いい紅茶だ。これはあれだな、昨日仕事さぼったことに対する仕返しだな。くそ、波江め。君ってほんと最高だよ。
「そう?じゃ、失礼するわね」
俺とシズちゃんに一瞥をくれたあと、波江はさしたる興味もなさそうな顔でバッグを手にし、部屋を後にした。ほんとに弟にしか興味ないな。だって平和島静雄が折原臨也宅を襲撃だよ?普通ならもうちょっと気にするでしょっていうか上司の動向にはもうちょっと気を配ってほしいものだね。あーいい匂い。やっぱりこの茶葉いい。波江に追加注文してもらうように言っとこう。
「おい、ノミ蟲」
「……あ、ごめん。一瞬君がいることを忘れてたよ。ていうかさ、せめてドアから入ってきてくれない?非常識なのは存在だけにしといてくれないかな。あ、無理かあ。自販機やら標識やら投げちゃうような化物だもんね。常識なんて言葉は知らないよね。いや申し訳ない」
「てめぇはなんでいちいちいちいちそんなにうぜえんだ。ぶっ殺すぞ」
「怖いなあ……で?なんの用だい、シズちゃん」
カップを取って口許だけで笑うと、シズちゃんの額に青筋が浮かんだ。けれどテーブルがひっくり返らないところを見ると、やっぱり俺の予想通りらしい。呼んでもないのにシズちゃんがわざわざおいでになりやがった理由は。
「……てめぇに聞きてえことがある」
ほら、鐘は鳴らされた。俺の予定よりも若干早く。ほんとムカつくよ、シズちゃん!



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10/07/17

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