思えば、戻る術のない恋だった。





仕事が終わったあと、あのクソノミ蟲野郎の匂いがした気がしたので池袋をぶらついていた。鼻をひくつかせながら駅前、公園、60階通り、と睨みを利かせて回る。匂いがするんだ、あのクソ野郎がいるのは間違いねえはずだ。
「どこだあ……臨也ぁ……」
引っこ抜いた標識をずるずると引きずりながら、街を練り歩く。途中で出会ったセルティに驚かれたが、臨也の匂いがするんだと告げたら納得したように頷いて去っていった。あまり無茶はするなよ、という言葉とともに。
ああ、あいつはつくづくいいヤツだ。最近、ほんとの意味で新羅と恋仲になったらしいが、あんな変態なんぞにゃ心底もったいねえ女だと思う。まあなんだ、好き合ってんだから、俺がどうこう言うことでもねえか。
「……好き……なあ……」
物心ついてからというもの、恋というものにはほとほと縁がない。もちろん、好きになった女がいなかったわけではないが、なんせ俺の性分では大事にすべき人を傷つけずにはいられないだろうから。精神的な意味でも、肉体的な意味でもだ。
だからというわけではないが、ああして寄り添いあい、愛し合い、ともに歩んでいるあいつらを見るのが俺は好きだった。とか、新羅にゃ死んでも言わねえ。あいつはセルティが絡むと殺したくなるくらいにうるせえ。
「ん」
ふと、匂いがきつくなってきた。近づいてるはずだ。間違いねえ。標識を掴む手にぐっと力を込めて、きょろきょろと辺りを見回した。雑踏の中、見慣れたコートが目に入る。びきっと額に青筋が走ったのがわかった。一も二もなく駈け出して、その背中に手を伸ばす。ああ今すぐぶん殴ってぶち殺してやりてえなあ、臨也くんよお!
「見つけたぜえ、いーざーやーくーん?てめぇブクロに来んなってあれほど言っ」
掴んだ勢いで体ごと振り向かせた瞬間、俺は固まった。反動でパサリと落ちたフードから現れたふわふわした巻き髪、少しツリ気味な焦げ茶の目、ふさふさの睫毛、ピンク色したほっぺたにくちびる。って。え、え?え、これ臨也じゃねえだろ。誰だ、お前!
「……あ……」
いやいやどうすんだこれ、この状況。確かに臨也のクソ野郎の匂いがするってのに、これは臨也じゃねえ。着てるコートには見覚えがあるが、それ以外は臨也じゃねえ。なんだこれ。誰だこいつ。
「……っ、ぅ……」
ショートしかけていた思考回路は、女が小さく零した呻き声のせいで完全に焼き切れた。なんせ、臨也だと思っていたのだ。最悪だ、痣になってるかもしんねえ。
「わ、悪ぃ!」
慌てて手を離して謝ったが、女は黙ったまま俯くだけだった。どうしたらいいどうしたらいいんだクソわっかんねえよ!ガリガリと頭をかくと、女の肩がびくりと跳ねる。ビビらせたか、と反省するより先に、女がくるりと俺に背を向けて駆け出した。それを追いかけようと手を伸ばした自分の行動に、俺はひどく驚いた。
なにやってんだ、俺は。せっかく自主的に逃げてくれてんだ、逃がせばいいだろ。なのに、なにやってんだよ。なに引き留めようとしてんだよ。
そんな俺の行動を感じたのか、女が顔だけをこちらに向けた。怯えたような焦ったようなその目に浮かんだ涙に、ずくりと胸が痛む。泣かせた、初対面の女を泣かせてしまった。なんとも言えない後悔と焦燥とそれ以外のなにかを感じたまま、去っていく小さな背中をただ見つめるしかできなかった。


「おい、静雄?お前なんかあったのか?」
もやもやと眠れねえ夜を過ごした後で、出勤した俺にかけたトムさんの第一声がそれだった。かなり心配そうなトムさんの様子に、俺はそんなにひでえ面してんのか、とどこか他人事のように思う。
いや、実際ひでえんだろうな。なんたって一睡もしてねえし、メシも食ってねえんだから。なんつうか、あの女の泣き顔を思い出すたびに胸の奥がざわざわして気持ち悪い。胃がムカムカするし、とんでもなくイライラする。
ということを説明したあと、しばらく黙っていたトムさんが口を開いて、

「……ところどころ違うような気がしないでもないが……惚れたか?」

と言った。その瞬間、俺の頭の中でなにかが弾け飛んでどこかへ消えた。恋。え、マジか。久しぶりすぎて、すぐに気づけなかったってことか。そう言われてみれば、そうかもしれない。
「そんないい女だったのかよ?」
トムさんが楽しそうに笑いながら聞いてくる。なんせ状況が状況だ。そこまではっきりとは覚えちゃいねえが、とんでもなく美人だった気はする。
「そっすね……気が強そうで、なんつーか、人を見下すような表情が似合いそうな女でした」
「おい、それは誉め言葉じゃねえぞ。けど残念だな、もう会えねえだろうし」
そうだ。きっともう会うこともない。久しぶりの恋は、気づいた瞬間に終わりが決まっていた。まあ俺の性分じゃ、たとえあのとき気づいてたって先に進みようもないわけだがよ。
ああ、残念だな。せめて名前くらいは知りたかった、って、あ?なんか引っかかるぞ。そこまで考えて、俺はひどい違和感を覚えた。
そもそも、なんで俺はあの女の腕を掴んだ?出会いと涙が衝撃的すぎてすっかり忘れていたが、そうだ、臨也の野郎と間違ったんだった。
なんで俺はあの女と臨也を間違った?今までこんなことはなかった。あの女からは確かに臨也の匂いがしたし、着てたコートは臨也のそれと同じだった。
「……トムさん」
「ん?」
「悪いんすけど、早退していいっすか?」
しょうがねえ。行くか、新宿。煙草に火をつけて、大きく息を吸い込む。今日くらいは、ぶっ殺すのは我慢してやるぜ臨也くんよ。


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