いざや、と優しい音が自分の名前を形作る。それがとても耳に心地よくて、うっとりと目を閉じていると頭を撫でられた。大きな手、この手を臨也はよく知っている。 「臨也……」 噛み締めるように呟かれる名前が、耳に心地よいだなんて認めたくない。これ以上ないくらいに優しく、顔のあちらこちらに落とされるくちびるが、愛しいだなんて気づきたくなかった。けれど、もう臨也は知ってしまったのだ。ずっとずっと目を背け続けていた自分の本心も、本気すぎるくらいに本気な静雄の恋情も。 「……シズちゃんは……馬鹿だよ……」 まだ、夢と現の間を彷徨っている己を自覚しながら、臨也はそう呟いた。途端に優しい手つきで動いていた手がぴたりと止まる。なんだ、と思ってうっすらと目を開けると、不機嫌そうな仏頂面になった静雄と目が合った。サングラスは、しまったらしい。レンズに遮られることのない瞳とぶつかって、自然と高鳴る心臓だけはとても素直だ。 「てめえ……空気読めよ」 つまらなさそうにくちびるを尖らせて、静雄は不満げにそう言った。それが、なんだかとても可愛く見えて思わず笑うと、静雄はますます不貞腐れる。けれど、その頬が赤くなっているのは見逃さない。臨也は、変化を掴むのがとても得意なのだ。 「馬鹿だね、シズちゃん。ほんとに馬鹿……君は愛されてるのに、なんで俺なんか選ぶんだろうね」 瞼の裏に浮かぶのは、金の髪が触れ合う姿。ずっとずっとあれを思い出すたび、身の内からじりじりと焼かれるような想いを抱いていた。それは、もう臨也にとって認めざるをえない事実だ。あれは嫉妬以外の何物でもない。自分は、ずっとあの美しい殺人兵器に嫉妬していた。それを認めたくなくて、静雄の前から姿を消したのだ。 そんなことを知る由もない静雄は、臨也の発言に眉根を寄せるだけだった。イラついているのを隠しもしない鋭い視線に晒されることに、居心地の悪さよりもくすぐったい喜びを感じてしまう自分が愚かしくて笑えてくる。 「ああ?意味わかんねえこと言ってんじゃねえぞ。愛されてようが愛されてなかろうが、俺が欲しいのはお前だけなんだよ。まだ逃げようってんなら……閉じ込めんぞ?」 「怖いね、シズちゃん。さすがに犯罪だよ?」 「俺は本気だぜ、臨也。また消えられるくらいなら、閉じ込めてやるよ。足二本とも折りゃ、さすがのてめえも動けねえよなあ?」 「っ冗談……やめてよ、もういなくなったりしない」 つつ、と臨也の足首から太腿にかけて指を這わせる静雄の顔は真剣そのもので、ぞくりと悪寒が走った。この男は、やると言ったらやる。そして、多分臨也が想像している以上に、自分は静雄に執着されているのだろう。うれしいのか、恐ろしいのか、臨也にはもうわからない。 「いなくなったり、しないよ。約束してあげる」 「……臨也」 疑いは捨てきっていないながらも、ほっとしたような顔をされたのがくすぐったかった。こんな口約束の一つでそこまで安心されたら、愛されているような気になってしまう。ひどい男だ。臨也の胸は軋んで、とても醜い悲鳴を上げた。 「臨也、好きだ」 うそつき、黙れよ。そう言ってやりたかったが、静雄があまりにも優しくくちづけてくるものだから、結局すべて飲み込んでしまった。恋なんて、二度としたくなかった。人間への愛だけで十分だった。けれど、もう遅い。もう、戻れない。 「……シズ、ちゃん」 戯れに離れた隙をついて落とした呟きは、思ったよりもひどく艶めいていた。静雄の目が丸くなる。そこに映る自分は、いったいどんな顔をしているのだろう。嫉妬に狂った馬鹿面だろうか、誘うように微笑む媚態だろうか。 「……ちっ……俺以外にそんな顔したら、マジで監禁してやる……っ」 髪を乱暴にかき乱しながら、静雄が心底憎たらしそうにそう呟いた。冗談、嫉妬が自分だけの専売特許だと思うなよ。臨也はにやりとくちびるをつりあげた。 「シズちゃん、俺も君のこと閉じ込めていい?俺、自分でもびっくりなんだけどさあ……君の後輩に君をとられるの、ものすごーく嫌みたい」 「はあ?ヴァローナがなんだって?……待てよ、そういやさっきもヴァローナがどうたらこうたら言ってやがったよな?なんだってんだよ、一体。なんでヴァローナにこだわんだよ?言え、まだ薬効いてんだろ」 「残念だけどもうほとんど切れてるよ。ていうか、やっぱり薬盛ってたんだ?うわ、俺ショック。シズちゃんが汚れちゃった」 「臨也くん、てめえちったあ黙れねえのかよ。さっさと吐け」 「どっちだよ」 こんな軽口の叩き合いも、ずいぶんと久々だ。くすくす笑いながら、臨也はゆったりとくちびるを開いた。 「シズちゃん、俺と君が最後に会った夜を覚えてるかい?」 「あ?覚えてるけど、それがなんだよ」 「……やだなあ、シズちゃん。俺に言わせる気?君にはデリカシーってものがないのかな?なんで俺はこんなやつに、あ、待って待って怒らないで。わかった、じゃあはっきり言う。君さ、あの子と何回セックスしたの?俺とヤった回数より上?下?」 「……は?」 静雄の目が、先ほどよりも丸くなった。まじまじとこちらを見つめてくる視線をまっすぐに受け止め、臨也は静雄の答えを待つ。どんな答えが返ってこようとも、その答えで自分の気持ちがどう揺れようとも、きっと静雄は自分を離さない。そして悔しいことに、臨也も少しだけ、ほんとうに少しだけ、離れがたいと思っている。 だから、これは単なる儀式なのだ、また静雄の腕に抱かれるために必要な。臨也はそう思っていた、が。 「……なんか、誤解してねえか?」 「……シズちゃん、男らしくないよ。夜のホテル街、抱き合う男女、これはもうヤってるよね?セックスしたか、これからするかのどっちかだよね?」 「ばっ、ちっげえよ!ありゃ、取り立て場所があの辺だっただけだ!トムさん待ってただけで、俺もあいつもホテルには一歩も入ってねえ!!それに、別に抱き合ってたわけじゃねえ。抱きつかれたんだよ。俺も驚いたけどよ、外国じゃ挨拶なんだろ?ああいうのは。だから俺もやり返しただけだ。俺にとっちゃ、ヴァローナは妹みてえなもんだしよ」 臨也は、開いた口が塞がらなかった。この男、鈍いにも程がある。恐らく、それはあの殺人兵器なりの精一杯のアプローチだったのだろう。それに気づいてもらえないどころか、優しく抱きしめられた挙句にまさかの妹扱い。なんて罪作りな男なんだ。 さすがに一抹の同情を覚えた臨也だったが、ふと自分に注がれる熱っぽすぎる視線に気づき、肩を強張らせた。ひどく嫌な予感しか、しない。 「臨也……てめえ、そりゃあれか?嫉妬、か?」 「違う!!」 早すぎる否定は、と、かつて帝人に向けた言葉がぐるぐると頭を駆け巡る。案の定、静雄はにやりと口の端を持ち上げた。悪戯が成功した子供のような、けれどそれにしては男の色気に満ちすぎた表情だった。悔しいが、認めたくないが、見惚れてしまうくらいにはかっこよかった。 「臨也……嫉妬なんざしなくても、お前だけだ」 黙れよ、単細胞!臨也は内心で悪口雑言を吐きながら、黙って首を横に向けた。伸びてきた静雄の手が、顎を掴んでその角度を直す。臨也、と愛しげに名前を呼びながら、端正な顔が距離を縮めてくる。あと少しでくちびるが触れる、と思ったときだった。 「今度はよお、臨也ぁ……俺が、てめえに聞く番だよな?」 「し、シズ、ちゃん?」 「あのおっさんとのキスが、なんだって?詳しく聞かせてくれや、臨也くんよ……ベッドの上でな」 とても、とても悪い笑顔だった。ひくりと頬を引き攣らせる臨也に、静雄はよりいっそうくちびるに角度を持たせた。逃げられないことを悟りながら、己の失言を悔いたところでもう遅い。触れてくる手だけは優しいせいで、どうなってもいいかも、なんて思ってしまう自分が怖かった。 「俺がどんだけてめえに夢中か、他が見えねえか、ちゃんときっちり教えてやるからな」 啄ばむようなキスとともに、はっきりとそう宣言された臨也にできるのは、黙ってただ頷くことだけだった。 結局、散々泣かされて、四木に誘われはしたものの、静雄を思い出して拒んでしまったなんてこっ恥ずかしいことを白状させられて、浮気は浮気だとさらに意地悪く可愛がられて、宣言どおりにきっちり愛を教え込まれて、それでも、こういうのもなんとなく悪くないかもしれない、なんて思ってしまった臨也だった。 ←|戻る|→ 10/11/07 |