一ヶ月と、18日だ。すうすうと寝息を立てる臨也の額に流れる黒髪を手で弄びながら、静雄は小さく息を吐いた。
一ヶ月と18日、それは夜の闇に臨也が溶けて消えた日から経過した時間だ。新羅の言う通り、その間静雄は臨也の居場所どころか噂の一つすら手にすることができなかった。
純粋に怒りのみで動けたのは、最初の一週間だけだ。臨也との歪な関係が始まってからというもの、ほぼ毎日臨也の声や肌に触れていた静雄にとって、それはまさしく飢えと渇きに侵食され続ける日々だった。
新羅に言われるまでもなく、静雄は承知している。臨也が本気を出せば、きっと自分には見つけられないのだと。二度と触れることが叶わないかもしれないと思ったとき、足元から崩れ落ちそうになったことは記憶に新しい。
「……クソが……どこまでも俺をイラつかせやがって……!」
血を吐くような思いでそう吐露すると、ぴくりと臨也のまぶたが震えた。あまり持続性はないから、三十分くらいで目が覚めるよと言って家を出て行った闇医者の言葉を思い出し、静雄は壁にかけられた時計に目をやった。午前1時32分。そろそろ、臨也が起きてもおかしくはない。
「……臨也」
みっともなく掠れた声だった。触れたくて会いたくてたまらなかった存在が、目の前に横たわっている。気を抜けば、跡形もなく食い散らかしてしまいそうだった。それほどに焦がれて、餓えて、欲しているのだ。
ぴくぴくと痙攣を繰り返すまぶたを撫でると、臨也が眉間に皺を寄せた。触れるなと言われているようで少し腹が立ったが、気だるげに開かれたまぶたから覗いた赤い瞳と視線がかち合った瞬間、なんともいえない感覚が静雄の背筋を走った。
「……し、……ちゃ……?」
いまだ夢と現実の間を泳いでいるような、頼りなくて細い声だった。およそ臨也には似つかわしくない、けれど、情事の際に時折聞かされた声。腹の底がずくりと疼いた。
「……気分はどうだ?」
「あたま、いたい……なんか、ぼんやり……する……」
眉根を寄せて、臨也は心底辛そうにそう言った。たとえば腕が千切れていたとしても、臨也は静雄の前でだけは笑って見せるだろう。折原臨也はそういう男だ。その臨也が、素直に弱音を吐いている。ごくりと喉が鳴った。新羅の打ったあの薬が効いている、のだろうか。
「てめえ、どこ行ってやがった」
「……なにが……」
「一ヶ月以上、俺から逃げ回ってどこ行ってたんだって聞いてんだよ」
「ああ、そんなこと……?俺、隠れ家も人脈もルートもいっぱい持ってるからね……その気になりゃ、いつだって雲隠れできるさ……あれ……俺、なんでこんなことシズちゃんに言ってんのかなあ……」
なにかしたんだろ?と確信めいた疑念を突きつけられたが、静雄はなにも答えなかった。その沈黙を臨也がどう受け取ったかは知らない。けれど、静雄の考えていることが臨也に読めなかったことは、思い返してみればほとんどなかった気がする。
どこまでもいけ好かない男だと思わずにはいられない。なによりもわかってほしい想いだけは、決して理解してはくれないくせに。
「臨也」
「うん?」
「臨也、お前が好きだ。お前だって、少しは俺のこと……」
「君のこと?ああ、嫌いだよ。大嫌いだね。死ねばいいっていつも思ってるよ、シズちゃん」
にこにこと邪気のない笑顔でそう言われて、カッと血が上った。自白剤を使っても、臨也の本心は結局そうなのか。表面となにも違わないのか。
怒りで目の前が真っ赤に染まる。殴りそうになる拳を留めるために握りしめると、てのひらの皮膚に爪が食いこんだ。それでも、臨也は笑顔を崩すことなく、歌うようにくちびるを開いた。
「大嫌いだよ、シズちゃん。死んじまえ。なあ、なんで俺がこんな思いしなくちゃいけないんだよ?会うたび、せっせと記憶の中から情報を掘り起こさなくちゃいけない程度の存在だったロシア女のことを、なんで四六時中考えなきゃいけない?シズちゃんのせいだよ、全部シズちゃんが悪い」
「ロシア、女……ヴァローナか?なんだよ、なんで今ヴァローナなんか……」
怒りでぐらぐらと煮えたぎる頭を必死に働かせて、臨也の言葉を理解しようとした。けれど、さっぱり意味がわからない。いつも煙に巻くような婉曲な言い回しを好む臨也にしては随分と直球な表現を使っているようだが、それでも静雄にはここで自分の後輩の名前が飛び出た理由がまるでわからなかった。
探るように覗いた臨也の紅茶色の瞳は相変わらず優しく細められていたが、同時にひどく冷め切っている。今まで見た中で、いちばん冷たい瞳だと思った。

自惚れだと言われようが、静雄にはわずかばかりの自信があった。どんなに理屈をこねようが、理由を重ねようが、臨也は結局は自分から逃げなかった。臨也と静雄自身が認めたように、臨也の頭と舌さえあれば自分から逃れることなどいつでもできたはずなのだ。心のどこかで、臨也も自分を憎からず思っているのではないのかと、こうして肌を重ねていればいつかは情愛を向けてくれるのではないかと。
「……臨也……」
「名前呼ばないでよ。気持ち悪い」
もっとも、そんな些細な希望すらも、臨也が自分の前から姿を消したあの夜にほとんど砕けてしまっていた。そして、今、最後の欠片まで砕け散ってしまいそうになっている。ともすれば振り切れそうな感情を、静雄はなけなしの理性で必死に抑えていた。
「てめえは俺のもんだ。なあ、臨也……何回も何回も何回も何回も言ってんだろうがよ」
「愛してるって?シズちゃんが?俺を?あはははははははははは!ねえ、やめなって。やっぱりおもしろくないよ、その冗談」
甲高い臨也の笑い声が、静雄の鼓膜を引っ叩いた。額に血管が浮くのがわかる。
「てめえぶっ殺すぞ、臨也!!」
思わず拳を振り上げてそう叫ぶと、臨也の顔から一瞬で笑顔が消えた。代わりに浮かんだ、憎悪と嫌悪。そして、臨也にはまったくもって似合いそうもない、わずかな絶望。鋭い視線は、臨也が好んで使うナイフによく似ていた。
「黙れよこの単細胞!死ね!今すぐ死ねよ!もう顔も見たくない!!……ああ、でもそれは君もだったっけ?安心しなよ、池袋にはもうこない。だから彼女とお幸せにどうぞ。慰謝料も請求しないし、警察にも訴えないよ。俺の記憶から綺麗さっぱり消してあげるよ。君のこと、全部ね」
「はあ?なに言ってんだてめえ……つーかよ、俺がそんなことさせると思ってんのかよ?ああ?」
「どうして君の意思が関係あるのかな?恋人気取りはやめてほしいね。あ、違うね、愛人かな?ごめんね、シズちゃん。そっちは間に合ってるんだよねえ、俺」
「だから意味わかんねえんだよ、さっきから。俺を怒らせんじゃねえ……俺はよ、てめえを愛してんだよ臨也……今すぐぶっ殺してやりてえくらいによお!」
非力な体を包むシャツに手を伸ばし、力任せに引き裂いた。布地と臨也が悲鳴を上げる。嫌だやめろと暴れるのを押さえつけて、静雄は息を吐いた。
襤褸切れのようになった黒いシャツから覗く肌は、病的なほどに青白い。もともと細い体だったのに、最後に会ったときよりも肉が落ちていた。そんな状態で、まだ抵抗するのか。なんの意味もないのに。
「はな、っせ、よ!死ね!もうお前とは寝ない!死んでもごめんだ!!」
「うるせえ!俺を愛せよ!人間なんか捨てちまえ!俺だけ見ろよ!!てめえみてえなクソ野郎を愛してやれんのなんか、俺だけだろうがよ……!!」
「愛さない!絶対に愛さない!!それをしたら、もう俺は俺じゃない!折原臨也は、平和島静雄だけは永遠に愛さない……っ」
「……臨也……!」
できるなら、できることならば、殺してやりたいとさえ思う。こんな惨めな恋、もう捨ててしまいたい。けれど、どんなにそうしたくても、静雄の想いはもう取り返しのつかないところまできてしまっている。きっとどちらかが死ななければ、否、死んでもきっとこの想いだけは消えない。限りなく憎しみに近い熱を孕んだ、この心は。
「……シズちゃんになんて、出逢わなきゃよかった……」
ふと、そんな言葉が聞こえた。視線だけでも逸らしたいのか、横を向いたままの臨也の顔が苦しげに歪んでいる。押さえつけているせいかと思ったが、わずかに震える肩としゃくり上げるような息遣いに、静雄は息を飲んだ。まさか。ありえない。けれど、
「い、ざや?お前……泣いてんのか……?」
臨也の涙を見るのは、セックスのときだけだった。それも、よっぽど酷いことをしなければ臨也は絶対に感情を揺らさない。臨也がこんな風に泣いているのが信じられなくて恐る恐る聞いたが、臨也はなにも答えなかった。
その代わり、横を向いていた顔がこちらに向き直った。真っすぐに見つめてくる臨也の瞳は濡れていて、こんなときだというのに静雄にはとても艶めいて見える。
「臨也……?」
「……シズちゃん、なんで?ねえ、なんでだよ、シズちゃん。俺のことを愛してるんだろう?じゃあ、なんでカラスなんかと遊ぶの?ねえ、俺だけ見てなよ。他の誰も見るな。触るな。愛するな。俺のこと散々好きにしたくせに……ふざけんな!ふざけんな!ふざけんなよ!!」
「おい、なんだよカラスって……」
「ねえシズちゃん。四木さんにキスされて、俺がなに思ったかわかる?違う、シズちゃんの煙草の匂いじゃない、だよ。ははっ気持ち悪い……なんで俺の中に入り込んでくるんだよ!お前はいつもそうだ!いつだって俺の思い通りにならなくて、俺の邪魔ばっかりして……俺のものになんてなってくれないくせに……っ」
両手で顔を覆って、臨也は子どものように泣き始めた。ここまで感情が露になっているのは、やっぱり薬のせいなのだろうか。それとも、目の前にいるのが自分だからか。できれば後者であってほしいと願いながら、静雄は涙で濡れる細い指にキスをした。びくりと臨也の体が震える。愛しくて愛しくてたまらない。
「意味がさっぱりわかんねえ上に、ちーっとばかし聞き捨てなんねえことがあったけどよお……とりあえずこれだけは言わせろ、臨也。俺は、とっくにてめえのもんだ。惚れた方が負けだってんなら、俺はずっとてめえに負けてる。何回言わせりゃ気がすむんだよ、てめえは。高校んときから、てめえ以外見えねえっつってんだろうが馬鹿が!」
震え続ける痩身を、力加減に気をつけて抱きしめる。言葉でわからないなら、それ以外の方法でわからせてやればいい。逃がすつもりも、諦めるつもりもないことを。
臨也はしばらく拒むように身を捩っていたが、しばらくすると脱力したように体重をベッドに預け直した。顔を覆ったままの両手に触れて、シーツの上に移動させる。涙でぐちゃぐちゃな顔が、いつもよりずっと可愛く見えた。
「……でもね、俺はやっぱりシズちゃんを愛せないよ……だから、シズちゃんが俺を愛さなきゃだめだ。そうでなきゃ、俺は君のものでいられない。君の傍にいる理由がなくなる。ねえ、シズちゃん、苦しい。苦しいんだ。俺を助けてよ、シズちゃん」
力なくシーツに預けていた両腕を上げて、臨也は静雄の首に縋りつき、その肩に額をすりつけてきた。なんだかとんでもないことを言われている上に、とんでもないことをされている気がする。結構な衝撃を受けている静雄にはお構いなしで、臨也は抱きつく腕にさらに力をこめてきた。
「……あー……臨也、」
「なに?」
「……キスしていいか?」
「……だめ」
「聞こえねえよ」
涙で濡れた真っ赤なくちびるに吸いついて、馬鹿、という文句を食べてやった。聞きたいことは山ほどあるが、まあ、時間はたっぷりあるのだ。今はただ、臨也に触れていたい。静雄はそう思いながら、目を閉じた。


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10/10/11

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