鳴り響いたインターホンに、岸谷新羅は首を捻った。愛しいデュラハンは仕事で帰ってこれないと言っていたし、急患の連絡も受けてはいない。こんな時間に連絡なしで尋ねてくる客などろくでもないに違いないが、無視するわけにもいかない。重い腰を上げて覗いたレンズの向こうにいたのは、思った通りのろくでもない人物だった。 「いらっしゃい、臨也」 「……しんら」 どこからどう見ても弱っている臨也の様子を疑問に思いつつ声をかけると、思ったよりも弱りきった声が返ってきた。いつも涼しい顔で高見の見物を決め込む臨也をここまで疲れさせる人物など、新羅は一人しか知らなかった。 「どうしたんだい?とりあえず、入りなよ。お茶淹れるから」 「ああ……悪いね、急に押しかけたのに」 「……ちょっと。やめてくれよ。素直な臨也なんて天変地異の前触れじゃない?」 「ひどいな」 そう言って笑った臨也は、あまりにも小さく見えた。これは、なにかあったな。新羅はこっそりと溜め息をつきながらそう思った。 「で?どうしたんだい?」 コーヒーを手渡しながらそう言うと、臨也はぎゅっと眉根を寄せた。黙ったままカップを受け取り、じっと中身を見つめている。 「心外だな……おかしなものなんて入れてないよ?」 「なにも言ってないだろ」 臨也は溜め息をついてコーヒーを流し込んだ。新羅は見るともなしにそれを眺めながら、ポケットから取り出したライターをカチリと鳴らした。新羅にはおよそ似つかわしくない火打石の音に、臨也は目を丸くしている。 「……火なんてどうするつもり?」 「患者の疲れを少しでも取ってやろうという私なりの心遣いさ。いい香りなんだよ。失礼」 臨也に渡したソーサーを自分の方に引き寄せ、ライターと同じくポケットから取り出した円錐状の香をちょこんと立たせる。黄土色のそれに火をつけると、甘ったるい香りが鼻孔をくすぐった。 「アロマとか、新羅のくせに生意気だね。そういえば、運び屋はいないのか?」 「誉め言葉として受け取るよ。セルティは仕事。今日は帰ってこないってさ……君ってほんと底意地が悪いよね。ひん曲がってるっていうか。セルティの不在知ってて来たくせに」 「はは!新羅のそういうとこが好きだよ。誉め言葉として受け取っておこう」 心底楽しそうに笑った臨也だったが、正直言ってその顔はひどかった。もともとすっと流れるように繊細だった顎からは、さらに肉が削げ落ちている。目の下の隈も酷いし、なにより顔色が悪すぎる。いつの間にか視点が医者のそれに切り替わっていることに新羅が気づいたときには、臨也はもう笑っていなかった。 深く深く、溜まったなにかをすべて追い出したいのだとでも言うように、臨也は大きく息を吐いた。しなやかな指が、漆黒の髪をぐしゃりと押し上げて潰す。そんなつまらない仕草一つさえ、臨也は美しかった。セルティにはもちろん敵わないが、美しかった。 「眠れないんだよね。原因は自分でもわからない。市販のも病院のもちょっとヤバいのも、薬は一通り試したけど、だめなんだ。長い時間は眠れない。疲れてるのに眠れないって辛いねえ……俺は人間にとって睡眠というものがどれほど重要かということを身を以て学習したよ。これこそ本当の睡眠学習というやつじゃなかろうか?睡眠らぁぶ。俺はレム睡眠が好き!そういうわけだからなんとかしてよ、新羅」 「不眠症か。薬は眠るきっかけ程度にはなってるのかな?眠り続けるのが難しいの?」 「そうそう。薬使えば眠くはなるんだけど……朝までは眠れないんだよ」 「なるほどね。俺はそういうのは専門外なんだけど……まあ、数少ない友人が困ってるわけだからね。協力は惜しまないよ?」 ぽんと臨也の肩を叩いて、新羅は微笑んだ。茜に見せたのと同じ柔和な笑みは、普段ならばともかく弱り切っている臨也にはなかなか効果的だったらしい。ほっとしたように笑い返そうとしたその瞬間、臨也がひくりと眉を跳ねさせた。 「……しん、ら?」 「どうしたの、臨也?……ああ、効いてきた?そのまま寝なよ。だいじょうぶだから」 「くすり、入ってなかったのに……いつ……」 「これ、いい匂いだろう?高いんだよ、こういうのは」 ソーサーを指差して言うと、臨也が悪趣味だと眉根を寄せた。臨也にだけは言われたくないなあと返して、新羅は眼鏡のブリッジを押し上げた。自分には効かないようにしてあるとはいえ、あまり長い間吸うのは考えものだ。とっとと片付けるに限る。香も、もちろん臨也も。 「静雄となにかあったんだろ?」 「……なんで……いま、シズちゃんのなまえがでる、わ……け……」 「臨也をそんな風にできるのは、静雄だけじゃないか。臨也を揺さぶれるのは、静雄だけだろ?高校のときから、ずっとそうだった。同じように、臨也を助けられるのも僕じゃない」 「し、んら、やめろよ……いうな」 「ほんとは、わかってるんだろ?」 「ちがう、しらない」 嫌だ嫌だと首を横に振って、臨也は耳を塞いだ。なにも言うなと言いたいらしい。子どもっぽいその仕草も、臨也には妙に似合っていた。臨也は子どもだ。自分に正直な子ども。そして、静雄も子どもだ。どちらも子どもだから、たまに軌道修正してやる必要がある。ただそれだけだ。 「……今はおやすみ、臨也」 眠りに落ちることを拒みながらも抗いきれなかった臨也に、果たしてその言葉は聞こえたのだろうか。姿を潜めた赤い瞳を思い浮かべながら、新羅は小さく笑って臨也の黒髪を撫でた。 「もう入ってきていいよ、静雄」 振り返ることなく、玄関へと続くドアへとそう声をかける。言いきるか言いきらないかのうちに乱暴に開いたドアが壊されていないことを祈りながら、新羅は静雄に視線を向けた。 静雄からメールが届いたのは、臨也にコーヒーを淹れるためにキッチンに立ったときだった。 『あいつの匂いがする。そこにいるか?』 なんとも解剖意欲を湧きたてられる文面だと苦笑しながら、新羅はそれに手早く返事をした。 『僕が呼ぶまで部屋には入らないこと。僕の家で喧嘩もセックスもしないこと。臨也にあまり乱暴しないこと。この三つは守れるかい?』 我ながら殺されないかなあと思うくらいには失礼な文面だったが、切羽詰まっているらしい静雄からの返事は短い肯定の一言だった。そういう意味で臨也に触れることを何年も耐えてきた静雄にとっては、案外簡単なことなのかもしれない。 「君らはさあ、ほんとになんなの?なんでここまでこじれるの?見なよ、臨也のやつこんなにやつれちゃって可哀想に……ほんとに眠れてないみたいだね。まあ、それは君も変わらないみたいだけど」 「……あんま、触んな」 「はいはい」 嫉妬剥き出しで睨みつけてくる静雄に完全にキレられては敵わない。すぐさまぱっと両手を離した新羅から奪うように臨也を引き寄せ、確かめるように抱きしめる静雄の顔といったら。自分のセルティへの想いもかなりのものだと自負しているが、静雄も随分と大概だと新羅は思う。 「静雄、久しぶりの臨也を噛み締めてるとこ悪いけどさ、袖めくりたいからちょっとこっちにそれちょうだい」 「あ?……てめえ……なにする気だよ」 「あのさあ、僕はセルティにしか興味ないって言ってるだろ!臨也に触る人間全部排除する気?自白剤打つだけだよ。折よく不眠が続いてるみたいだし、効果は期待できる」 「じは……おい、それはどうなんだ」 「なにその目。こうでもしなきゃ、臨也の本音なんか一生聞けないだろ。君にそんな腕はないし、臨也のプライドはチョモランマより高い。殊君に関しては天まで届く勢いだよね。それに、多分これは最後のチャンスだ。目が覚めたら、臨也はきっと完璧に消えるよ。もしかしたら日本からいなくなるかもね。臨也が本気で君から逃げようとしたら、もう絶対に見つけられない。最後に臨也と会った日から何日経った?足跡の一つさえ見つけられなかったはずだよ。十分に思い知っただろ?……さあ、どうする?」 静雄の目を見たその瞬間からすでに知っていた答えを、新羅はあえて求めた。臨也ほどではないが、常の力を失ったその瞳。けれど、ぎらぎらと輝くその瞳。臨也を欲して、臨也に飢えて、臨也を求めてやまない、その瞳。 「……新羅、」 次に続いた言葉に、新羅は首を縦に振った。 ←|戻る|→ 10/09/19 |