「ドタチーンっ!!」 あまり好きではない呼び名に振り向いたその瞬間、門田京平は鈍い音を伴う衝撃に襲われた。だが悲しいかな、それは決して初めての感触ではないのだ。 眼前に迫りくる障害物に対処するためか、知らずに伏せていたまぶたを開く。案の定というかなんというか、眉目秀麗な顔が視界を占めていた。 「……臨也……急に飛びつくなと何度言えばわかるんだお前は」 「ドタチン!ドタチン、会いたかった!もう君だけが俺のオアシスだよ!」 「はあ?」 訳がわからず間抜けた声を上げる門田の首に縋りつき、臨也は覗き込むように視線を合わせてくる。 珍しく弱っているように見えるつり上がった瞳は、印象深い赤い色。高校時代に臨也が短ランの下に好んでよく着ていた赤いシャツをふと思い出した。懐かしい思い出だ。 が、そんなセンチメンタリズムな心境も、臨也の黒髪の向こうに見えるバーテン服に凍りつく。 臨也と同じく門田の同窓生である平和島静雄が、右手に道路標識を引っ提げていたのだ。門田は血の気が引くのを感じた。 止まれ、と書かれてあるその標識に、いやお前が止まれよ、と突っ込むほど命知らずではない。 「い、いざ、臨也、お前とりあえず離れろ」 「なんで!?ドタチンまで俺を見捨てるのかよー!」 「だからさっきからなんなん……おい静雄、よくわからんが落ち着け。頼む」 静雄の沸点が低いのは重々承知しているが、なぜその矛先が自分に向いているのかさっぱりわからない。 そう、今の静雄はどこからどう見ても門田に敵意を向けていた。門田に抱きついている天敵、折原臨也ではなく。 「……安心しろ、門田。俺とてめえの仲だろ?三分の一殺しで勘弁してやるからな」 そう言って笑った静雄の目は、まったくもって笑っていなかった。 確かにいったん火がつくと本当にもうどうしようもない男ではあるが、その実心根はなかなかにまっすぐでむしろ優しい性分なのだ。 一度懐に入れた人間には、特に甘い面がある。だというのに、どうしてこうなった。 門田は今日この時間にこの場所を訪れたことを死ぬほど後悔した。そして死を覚悟した。そのときだった。 「シズちゃん」 それまで自分に抱きついたまま、首筋にぐりぐりと頭を押しつけて訳のわからないことばかり叫んでいた臨也が、久しぶりに理解できる単語を口にした。 名前を呼ばれた静雄は、じわじわと進めていた足をぴたりと止める。そして、臨也にまっすぐ視線を向けた。 ふと妙な違和感を覚えた門田だったが、それは臨也の次の発言によって霧散していく。 「ドタチンにおかしなことしてみろ。絶対に許さないからな」 絶対零度、とはこのことか。臨也が紡いだ声音は門田がほとんど聞いたことのないくらいの低さで、まるで地の底を這っているようだった。 静雄の方を向いているせいで臨也の表情は窺えないが、おそらくはその声と同じくらいに冷たいのだろう。 「俺は本気だよ?わかったら、さっさとそれ捨てて。それとも、俺が君を捨てようか」 「……ちっ……」 静雄は心底悔しそうに舌打ちをして、標識を放り投げた。 どれだけ力を込めたか知らないが、その切っ先がコンクリートを突き破ったのを見て、門田は背筋に怖気が走るのを感じた。 おそらく、もしも殴られていたら三分の一ではすまなかったに違いない。 これは臨也に礼を言うべきなのだろうか。けれど、どう見てもそんな雰囲気ではなかった。 「……はは……なに素直に言うこと聞いちゃってんの?気持ち悪い」 「てめえは俺のもんだ。言うこと聞いてやるのは当然だろうが」 「やめてくれ、マジ吐きそう……」 げんなりと呟いた臨也が、ぐるりと首をこちらに戻した。疲れたように溜め息をついて弱々しく笑う臨也の背を撫でてしまったのは、もうほとんど条件反射だった。 臨也がくすぐったそうに目を細め、静雄の額の青筋が増えた。なんだこの状況は。 門田は先ほど失ったばかりの違和感のピースを集め、それをはめ込んでいくことに専念した。 臨也と静雄とは高校時代からの付き合いだ。そして、なぜか臨也には昔から妙に懐かれていた気がする。 臨也がつけた呼び名はあまり好きではなかったが、それでも綺麗な顔を笑みの形に崩してドタチンドタチンとすり寄ってくる姿は純粋に可愛かった。 同い年の男に対する表現としては適切ではないかもしれないが、あの頃の臨也に当てはめるにはこれがいちばんぴったりなのだ。 もちろんそんなポジションについていたから、臨也と静雄の喧嘩を目の当たりにすることは多かった。おかげでとばっちり食らうことも多かった。 それでも、なぜか関わりを絶とうとは思わなかったものだった。 臨也に弄ばれている静雄には普通に同情の念しか浮かばなかったし、困った奴だとは思うものの臨也のことも嫌いではなかった。 臨也が自分に向ける、珍しくなんの含みもない笑みが嫌いではなかった。 同じ本を読んだあと、感想を言い合う時間が嫌いではなかった。 過剰なくらいのスキンシップが嫌いではなかった。 呼び方はともかく、自分を呼ぶ声が嫌いではなかった。 青春時代の一ページ、今思えば、それは恋と呼ぶべき想いだったのかもしれない。 「……そうか」 最後のピースをはめ込んで完成したパズルを見たあと、門田は納得したように頷いた。 抱きついたままだった臨也が、不思議そうな顔でどうしたの?と尋ねてくる。それに笑みだけで応えて、門田は首に纏わりつく華奢な腕を外した。 「俺はな、臨也。馬に蹴られるのはごめんなんでな」 「……はあああ?俺とシズちゃん、そんなんじゃないから!」 心底嫌そうに叫ぶ臨也の後ろで、静雄がいまだにこちらを軽く睨んでいる。よくよく考えてみれば、高校時代にも静雄はこんな顔で自分を見てはいなかっただろうか。 門田はそう思って、背筋が寒くなるのを感じた。静雄の嫉妬を一身に受けるなんぞごめんこうむりたい。比喩ではなく、焦げてしまいそうだ。 「事情はよくわからんが……まあ、自業自得と思って諦めろ。あいつは一途だろうし」 「……ど、ドタチンまで……俺を見捨てるんだな……!!」 呪ってやる呪ってやると繰り返す臨也の頭を撫でると、突き刺さりそうな視線を全身に感じて門田は苦笑する。 そんなに大事なら、もっとうまくやれよ静雄。そう言ってやりたいが、命は惜しいのだ。 「……臨也、てめえいい加減にしろよ……俺は我慢強い方じゃねえ」 「はっ!我慢のがの字もないくせになに言ってんの?シズちゃんのせいだからな、ドタチンが俺に優しくなくなったの、シズちゃんのせいだからな!」 「……臨也くんよお……あんまり俺を怒らすなっつってんのがわかんねえのか?てめえは馬鹿か?」 「痴話喧嘩に俺を巻き込まないでくれるか」 そう言った門田に、臨也は驚愕と絶望の入り混じった瞳を、静雄は照れと警戒が入り混じった瞳を、ほぼ同時に向けた。 なんだかんだ言っても結構息合ってるよなあと思いつつ、門田はちょっとした寂寥感にくちびるを歪める。 恋だったかもしれない気持ちは、もうただの懐かしい思い出だ。けれど、それでも、せめて幸せを願うくらいは許されるはずだ。 ぎゃんぎゃん喚いている二人の姿に呆れつつ、門田は空を見上げた。青い空は、来神の屋上で見たそれとよく似た色をしていた。 ←|戻る|→ 10/08/09 |