泣きたい。もう恥も外聞もかなぐり捨てて、わんわん泣きたい。 嫌いで嫌いでいっそこの世から消えてもらいたいくらいの男に見下ろされながら、臨也は心の底からそう思った。 押し倒されたベッドが無駄にやわらかいのも、内装が無駄にムーディーなのも、すべからく腹立たしい。 なにが悲しくてこいつとラブホテルになんてこなくちゃいけないんだ。臨也はぎりぎりと歯を鳴らして呻いた。 「し、シズちゃんさあ……」 「なんだよ」 「……やめない?」 「やめねえ」 臨也を押し倒している男、平和島静雄は、なんの迷いもなくきっぱりと言い切った。 これには、さすがの臨也もさっぱり信じていない神様とやらに助けを求めたくなるというものだ。 なにがどうしてこうなったのか。ほんとうに泣きたい。泣き喚きたい。 「ね、ねえ、シズちゃん……ちょっと話さない……?ほら、時間はたっぷりあるし……!」 「……話だあ?」 インナーの裾から忍び込み、やわやわと肌を撫でていた手がぴたりと止まる。コートはとっくの昔に床の上だ。 サングラス越しではない静雄の視線が、探るように臨也の顔を這う。手が止まったことをこれ幸いと抵抗しようものならば、今度こそ待ったなしで犯されるに違いない。 想像して、臨也はぶるりと身を震わせた。冗談ではない。 「そう、話……シズちゃんとゆっくり話す機会なんて無に等しいでしょ?だからさ、ね?せっかくなんだから、たまにはいいだろ?」 相手の機嫌を損ねないように計算されつくした態度をとることは、臨也にとっては朝飯前だった。 とはいえ、相手は静雄。臨也の予想を、この上もなくあっさりと裏切って捨て去ってくれる男である。臨也にとって、これは賭けだった。 「……そうだな……俺も、てめえに聞きてえことがあるしよ」 そう言って、静雄は止めていた手を服の下からどかせた。ついでのように、乗り上げていた臨也の上からもどいたので、臨也は気づかれないようにほっと息を吐いた。 どうやら、第一ステップはクリアしたらしい。 恐らく喜ぶべきところなのだろうが、新羅に門田、そして静雄本人の口から飛び出た信じたくない事実を肯定されているようで居たたまれないのが本音だ。 こんなにあっさり言うこと聞くなんて、こいつほんとに俺のこと好きなんじゃないだろうか。 そんな空恐ろしいことを考えながら服の乱れを直しつつ体を起こし、ちらりと静雄に視線を向ける。 なにを考えているのかさっぱりわからない顔で、ただただ臨也を見詰め続けるその姿ははっきり言って気持ちが悪い。 「え、と……」 沈黙が肌に突き刺さるようだ。 なにか話さなければと思うものの、初めてあったときから静雄の神経を逆撫ですることにばかり心血を注いでいたせいか日常会話が出てこない。 しっかりしろよ折原臨也、ここでなんとかしないとまずいって。 「シズちゃん、あの、」 「なあ、臨也」 カチ、と火打石がぶつかり合う音がした。静雄が煙草に火をつけた音だと気づいたときには、すでに煙が臨也の鼻を掠めていた。 ある特定の例外を除いて、臨也は煙草の匂いが好きではない。まして静雄から香ってくるともなればなおさらだ。 思わず顔を顰めた臨也に、静雄は真剣すぎる眼差しを寄越した。なんなんだと身構えた臨也の耳を、静雄の声が撃ち抜く。 「誰だ、てめえを抱いたやつ。合意の上ならぶん殴る。強姦なら、ぶっ殺す」 「……はあ?」 思いきり、間の抜けた声が出た気がする。どうしてそんな発想に至るのか、まったくもって理解ができない。 こういう意味のわからないところが嫌いで嫌いで大嫌いなんだ。臨也は溜め息をつくことすら億劫になった。 「……一応聞くけど、なんで言わなきゃいけないの?」 「てめえが俺のもんだからだ。俺は独占欲が強いんだよ。特にてめえ相手だと自分を抑えらんねえ。過去は過去だって流せるやつはいいよなあー?俺には無理だ。だから吐け」 臨也は唖然とした。開いた口が塞がらない、というのを体感できるくらいには唖然としてしまった。それなのに、当の静雄は涼しい顔で煙草をふかしている。 臨也が口を割らないことにイライラはしているようだが、それにしても臨也よりは何倍も冷静だった。 「重い……重いよシズちゃん。そんなんじゃいつか彼女ができたって捨てられちゃうよ?」 「残念だなあ臨也くん。俺は彼女なんていらねえんだよ。俺が欲しいのはてめえだけだ。同じこと言わせんな」 「いやいやマジで勘弁してよ……なに?もしかして新羅とドタチン巻き込んでのドッキリ大作戦?ああそれなら大成功だよ。俺すっごいびっくりしちゃったーあはははは。シズちゃんも体張るよね!俺を抱くとかよくできるよねえ。ほんと意味わかんないんだけ」 「黙れ犯すぞ」 静雄の額に青筋が浮かんだ。それはもうびっきびきに浮かんだ。これはまずいと思い、臨也はベッドを蹴ったが、その足は床に着く前に静雄に捕まえられてしまった。足首が、ミシミシと嫌な音を立てている。痛いと訴えると少し力を緩めてくれはしたが、離してくれる気はないらしい。許容量を超えた脳が判断を誤ったせいでついつい喋りすぎてしまったことを、臨也はいまさらながらに後悔した。 「は、はは……レイプ反対!」 「なら言えよ、臨也くんよお……俺だってな、あんまりひでえことはしたくねえんだぜ」 もう十分してるだろ!と叫びたかったが、そんなことをしたら絶対確実に間違いなく痛い目を見ることは明らかだった。 血管が浮かんでいる静雄の顔と、掴まれている自分の足首と、今朝の思い出したくもない強引なセックス。 それらを鑑みた結果、臨也は降参することに決めた。誰だって自分は可愛い。そういうことだ。 「……言っとくけど、俺はゲイじゃないからね。男は一人しか知らない。粟楠会の四木さんて、名前くらい知ってるだろ?」 「て、めえ……ヤクザのイロかよ!性質悪すぎんだろうがよお!!」 「うるっさいなーもう……なんだってこんなことシズちゃんに話さなきゃなんないかな。死にたい。ていうかシズちゃんが死ね。最悪最悪最悪。忘れたかったのに」 「あ?……強姦か?」 眉を顰めた静雄の周りの空気が、一気に燃え上がるのを臨也は感じた。ほんとうに沸点の低い男だ。 その情熱をもっと他に向ければいいのに、と臨也は呆れたが、それは口に出さないでおいた。火に油を注いだって、いいことなんてなにもない。 「合意の上です。ていうか……その、俺の片想いだったんだよねえ……いつもと毛色の違うセックスが楽しかったんだと思うよ、向こうはさ。嫌だよねえ、大人はずるい。俺なんて煙草味のキスが特別になっちゃうくらい入れ込んでたのに、俺が本格的に情報屋始めたころからぱったり相手してくれなくなったよ。仕事だけの付き合いなんて嫌だって言ったら、すごい笑われたよ。思い出しても恥ずかしい……そういえば、あのときは落ち込み過ぎて俺らしくもなく荒れちゃったっけ。もしかして、シズちゃんにはいつも以上に嫌がらせしてたかもなあ。あんまり覚えてないけど……って、あのさ、聞いてる?いや、別に聞いてくれなくてもいいんだけどさあ……」 「……臨也、」 地獄の門から聞こえてくるような、低い低い声だった。いろいろな感情がどろどろに溶けて混ざり合ったような、複雑な色を帯びた声だった。 静雄は、いつもなんの感情も含めずにぼそぼそと喋るか、ブチギレて叫ぶかのどちらかしかない両極端な男だ。 そんな男の纏う珍しい空気に、うっかり興味を持ってしまったのは悲しい性としか言えない。 その時点で、臨也はすでに判断を誤っていたのだ。それを、臨也は結構すぐに後悔することとなる。 「俺はてめえを誤解してたぜ。てっきり人間なら誰でもいい変態の節操なしだと思ってたけどよお……」 「え?喧嘩売ってるの?殴っていい?」 「てめえにもその程度の良識っつーか性能は備わってたんだなあ。安心した」 「スルー?シズちゃんのくせにスルーなの?」 「けどよお、そういうのは俺に向けなきゃいけねえよなあ?安心しろ、臨也。俺が忘れさせてやる」 「いや、もう忘れたから。だいじょうぶだから。ほんと四木の旦那とはもう利害の一致っていう関係しかないっていうか、あの、い、嫌です、シズちゃん。マジやめて!」 「聞こえねえ。とりあえず今日は……あのオッサンとヤった数を上回るのが目標でいいよな?」 目を細めて笑う静雄の本気を感じ取り、臨也はひっと喉を鳴らした。 しまった。ほんとうにしまった。とっとと逃げておくべきだったのだ。さっき、静雄が妙な空気を纏ったその瞬間に。 足首を掴んでいた手が、明確な意図を含んだいやらしい手つきで這い上がってくる。 ほとんど泣きそうになりながら、臨也は静雄の発言を頭の中で反芻した。理不尽さにひどく腹が立つ。 「好きならなにやってもいいと思ってんの!?」 「好きだからこんなことしてえんだよ」 だからもう黙ってろ。その言葉とともに寄越されたのは、乱暴で稚拙なキスだった。入り込んでくる舌に思いきり歯を立てながら、臨也は静雄の袖を掴む。 逃げ道を必死で探したけれど、どうにも見つかりそうになかった。 ←|戻る|#page_29→# 10/08/15 |