メイクは上手くなったのに、君との接し方はわからなくなる一方だ。




「……ん……?」
ぼんやりと霞む視界の向こう、見慣れた二つの顔が俺をじっと見ていた。一人は心配そうに、一人は心底楽しそうに。痛む額に手を置いて、慣れた肌の違和感に溜め息をつく。
「……九瑠璃に舞流……お前ら、また盛りやがったな……」
「おっはよーイザ兄!今日も最高に可愛いよ!美人だよ!ねえキスしていい!?」
「兄……気……?(イザヤ兄さん気分はどう?)」
「最悪だよ!いい加減にしてくれ!お前らのイタズラのせいで、俺がどんな目に合ってると……あ、たま、痛ぇ……」
半端じゃない量の薬を吸いこまされたらしい。頭はぐらぐら視界はゆらゆら、俺はまさに満身創痍だった。確か、普通に道を歩いていて、後ろから声をかけられて、振り向いた口を布で覆われたんだっけ。ああごめんねマゼンダさん、これは辛かったね。俺、今さら大反省だよ。
痛む頭を手で抑え、体を起して、寝かされていたベンチに腰をかけ直す体勢にもっていく。こんなふざけた真似を度々できるだなんて、こいつらどこのどういう連中とパイプ築いてんだ。腐っても血を分けた妹だ、その辺をきっちり調べ上げて管理してやらねば。
そう思って口を開こうとした俺の前に、九瑠璃が大きな鏡を差し出す。見慣れた顔だった。いつもよりも少しメイクが濃いことを除けば。性懲りもなくまたやりやがって、愚妹どもが。
「イザ兄も水臭いんだからあ!女装がクセになっちゃったんなら、私たちに言ってよ〜もっともっと可愛くしてあげるのにさ!ナースにメイドにセーラー服!さあイザ兄のお好みはどれ!?あ、静雄さんに聞いた方がいいのかな?」
「……待て、なんでそこにシズちゃんの名前が出る?」
「……分……癖……(わかってるくせに)」
本格的に頭が痛くなってきた。そうだ、そうだった。シズちゃんの相手に手いっぱいですっかり放置していたが、こいつらは折原九瑠璃と折原舞流――俺の、可愛い可愛い妹だった。とりあえずまだ普通のワンピースを着せてもらっていることに、俺は謝辞を述べるべきなのだろうか。
「シズちゃんにばらす?羽島幽平行きの切符代としては十分だろうね」
「やだなーそんなことしないよ!こんな楽しいこと、そんなあっさりばらすわけないじゃん!」
「……さすが、俺の妹だね。反吐が出る」
「兄……黙……(兄さんには言われたくない)」
にこにこと笑う二つの顔に溜め息を寄越して、きょろ、と辺りを見回した。東池袋中央公園、かな。あいつに連絡せずに池袋へ足を踏み入れるのは随分と久しぶりだった。
「や、でも、イザ兄ほんとに可愛いよ。似合ってる。泣いてるみたいでゾクゾクしちゃう〜」
「お前は本当に気持ち悪いな、舞流。なんだよ、泣いてるみたいって。確かに頭痛いし泣きたいくらいに情けないけど、俺が泣くわけないだろ」
「粧……効……(そういうメイクだから)」
九瑠璃が俺の後ろから鏡に手を伸ばす。豊満な胸を背中に感じながら、その指に導かれるまま鏡に映った目元を凝視した。ふさふさのまつ毛に絡んで輝いているのは、ラメだろうか。
なるほど、これは確かに泣いているように見える。メイク知識のない男なら、たぶん泣いてると思うだろう。こういうことも可能なわけね、理解、じゃねえよ。ちょっと待って。
「……お前ら、これ前も使った?」
「うん」「肯」
謎は、すべて解けた。と、某探偵のお言葉を拝借したいくらいには納得した。ずっとずっと胸の奥に燻っていた疑問が綺麗に散った。甘楽の涙を見て、恋に落ちたとシズちゃんは言っていた。それはつまり、こういうことだったんだ。
「ふ、ははっ……ははは!あははははははは!あはははははははははははは!」
腹を抱えて笑い出した俺を、妹たちが奇妙なものを見る目で見ていたけど、特に気にならなかった。なんてことだろう、架空の女に恋してしまっただけでなく、そのきっかけだった涙までイミテーションだったなんて!これがおかしくなくてなにがおかしいって言うんだろう。
「……イザ兄?」
「泣……?(泣いてるの?)」
馬鹿言うなよ。ちょっと笑いすぎただけさ。





「おい、なにしてんだ?」
どれくらい経ったのか。妹たちが去った後、俺は一人でぼんやりとベンチに座ってた。かけられた声に背筋が震える。ほんとに俺を見つけることに関しちゃ天才的だね。いや、違う今は俺じゃなくて『甘楽』だったっけ。
すっかり沈みかけた太陽に照らされて、金色の髪はやわらかく輝いている。どかりと隣に腰かけたシズちゃんに、知らずすり寄っていた。ここは、少しだけ寒くて。
「……また、泣いてんのか?」
シズちゃんの指が、俺の目元を優しく撫でた。心配そうな視線に吐き気がする。やっぱり、シズちゃんには泣いてるように見えるんだな。馬鹿な男、ほんとに馬鹿な男だ。そんなだから、俺なんかに簡単に騙される。でも、そんなところが、俺は、俺はずっと、
「い……甘楽」
何かを決意したような声だった。いつの間にか伏せていた顔を上げるやいなや、くちびるに触れたやわらかい感触に、湧きあがったのは暗い絶望だった。
煙草の味を感じた瞬間、思いきり振り上げた腕をシズちゃんの肩めがけて同じ勢いで振り下ろす。痛くはなかっただろう。けれど、キスをやめさせるには十分だったようだ。
喉の奥が熱くて熱くてひりひりする。鼻の奥がツンとして、耐えられなかった。ラメなんかじゃない涙を零した俺を見て、シズちゃんが息を飲む。よかったね、本物と偽物をばっちり対比させられて。
「わ、悪い……嫌、だったか」
怒られることを恐れているようなシズちゃんの表情で、俺の中のなにかが完璧にぶち壊れた。気持ちが悪くて死にそうだ。

くちびるを引き結んで、踵を返して土を蹴る。伸ばされた手をナイフで切りつけて、俺はただただ走った。
胸が痛くてたまらない。視界が滲んで見えない。苦しい、苦しい、息ができない。できないよ、シズちゃん。





あの日と同じようにマンションに飛び込み、ミネラルウォーターを飲んでから鏡の前に立った。指を鏡に這わせて、涙の痕が残る目元をなぞる。
なにもかも嘘でできた女の頬を優しく優しく撫でながら、くちびるに辿り着いた。シズちゃんがキスをした、ピンク色のくちびる。
気づけば、拳を鏡に叩きつけていた。ひび割れた鏡に伝う血が、歪んだ像のちょうど頬の部分に垂れていく。それが涙を流しているみたいに見えて、心底ぞっとした。
気味が悪い、こんなもののどこがいいっていうんだ、あの男は。可哀想なシズちゃん、存在もしていない女に心奪われてしまった可哀想なシズちゃん。
「……っ」
気持ちが悪くて死にそうだ。シズちゃんにキスされたことが、気持ち悪かったわけじゃない。シズちゃんが『甘楽』にキスしたことが許せない自分が、心の底から気持ち悪かった。
胸の奥をじわじわと焼いては焦がすこの気持ち。この薄汚くて実に人間らしい感情から、俺はもう目をそらせない。
本当はとっくに気づいていた。半年近くシズちゃんとお付き合いしてた理由も。決まって別れ際に「また、会えるか?」って馬鹿みたいに聞いてくるシズちゃんの真剣な顔に、頷くしかできなかった理由も。まるで無自覚なプロポーズもどきに思わず赤くなってしまった理由も。
全部わかってた。気づいた瞬間に待っているものが、終わりでしかないことも。
「……甘楽……」
伝う血に指を伸ばし、ぐちゃぐちゃの姿をもっと汚すように鏡に塗りつけた。自分が生み出した手駒の一つ。俺であり、俺でなく、俺の知らないシズちゃんを知っていて、俺を愛さないシズちゃんに心から愛されている女。あの奥手で鈍感で朴念仁のシズちゃんに、あんな顔をさせる人間。


甘楽、可愛い俺の手駒
俺は今この世で一番お前が憎いよ


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