冷たい風が肩口を撫でた。
目が覚めた直後だから体が冷えてるのか、それとも実際に寒い場所なのか。身を震わせながら同じように睫毛を震わせ、渚はゆっくり目を開く。開けたはずなのに変わらず辺りは薄暗いままだったが、周りの様子が見えないほどの暗さではない。

「…どこ、ここ…」

今にも崩れそうなほどボロボロで、床にはコンクリートの瓦礫が落ちていたりもする。まるで映画で見るような廃ビルの中だ。
とは言えそんなところにいる理由が思い出せず、必死に記憶を手繰り寄せたところ、最後に黒岩に薬品を嗅がされ、意識が遠退いたことを思い出した。

「――っ!」

思わず身を抱き締め、きょろきょろと辺りを探る。
ここはあの駐車場ではなさそうだ。だとしたら、あの後ここまで運ばれたのだろうか。あの時一緒にいた奈都はどうしたのか。あの犯人の男は。そして安室は渚がいなくなったことに気付いてくれただろうか。様々な思考がごちゃ混ぜになる。
ふと、暗陰の中にこちらに向かってくる人影を見つけた。はっきりとそれを認識できるようになって、その人物が誰か特定できたことで更に渚は身を強張らせる。男は渚が起きていることに気付いたのか「ああ」と小さく声を漏らした。

「なんだ、起きたのか」

それは渚の気を失わせた張本人、黒岩だった。
精一杯の警戒心を放ち、睨み付けるが、虚勢であることは自分でもよく分かっている。寒さか、恐怖心か。ぐっと強く握り締めた拳は震え、ドレスの裾を掴むことで必死にそれを隠した。
血の気を失ったかのように肌が冷たい。けれどそんな渚を前にして、黒岩は苦笑しながら肩を竦めるだけだ。

「そんな恐い顔するなよ――って、まぁ無理な話だよな」
「……」
「巻き込んでしまって悪かったとは思ってる」

悪びれた風もなく淡々と告げられて、本当に反省している風にはとても思えない。
だがこのまま黒岩に害される雰囲気もなく、渚は思わず怪訝そうな表情を浮かべていた。黒岩は一体何を企んでいるのか。あのシャンデリアを落とした犯人らしい男とは共謀しているのか。巻き込んでしまった、ということは、狙いは奈都の方だったのだろうか。何も分からない。

「…あ、の」

なんとか絞り出した声はやけに弱々しい。緊張で喉がからからに渇いている。唾を飲み込んで無理矢理潤して、それから再び黒岩へと向き直った。ん?と呑気に首を傾げる様を見ていると、自分を攫った男と相対しているという認識がどうも薄れていくのだが。

「…あの、人は?姿が見当たらないようですけど…」
「そりゃ、朱藤奈都のことか?それとも男の方か?…ああ、両方か。男の方はちょっと色々、な。することがあって少し出ていったが、まぁその内戻ってくるだろ。そして朱藤の娘の方は――俺が逃がした」
「……はあ?」

つい飛び出た素っ頓狂な声が静寂な場にやけに響いて聞こえた気がする。慌てて口を抑えて、それからまた黒岩を見やった。
攫っておいて逃がすなど、意味が分からない。もしかして黒岩はあの男に協力しているように見せかけているだけなのだろうか。だったら話は早いのだが。
けれど黒岩は何を言うでもなく、再び肩を竦めて苦く笑うと、近くの瓦礫の上に腰掛けた。腕を組み、不意にその顔から色をなくす。また急に体が冷たくなった気がして、ぶるりと肩を震わせた。

「…あの男は朱藤奈都に歪んだ情を抱いていた。ついでに多額の借金を抱え、どうにも首が回らなくなっていたらしい。それならいっそ、あの娘と心中したがっていたんだ」

あまりに身勝手な理由だ。不快な感情に思わず眉間に皺を寄せる。

「奴があの娘を始末してくれるなら話は早い。目的は一致していたから、俺はあの男に手を貸した。ドアマンとして忍び込めるよう手配してやったり情報を教えてやったり、ホテルの外に逃げたと見せかけてその間警察からかくまってやったりとな」
「……っ!」
「けれど奴が朱藤奈都に付きまとっていたせいで、朱藤会長が探偵を雇ってしまった。…邪魔をされては堪ったもんじゃないからな。だから脅迫状を送ることで、注意を姉の方に逸らそうとしたんだ」

なるほど、つまり本当の狙いは初めから、姉の婚約パーティーに出席するであろう奈都だったというわけだ。実際に混乱を起こし、それに乗じて奈都を攫う算段だったと黒岩が語るのを、渚は警戒心を薄めることなく聞いていた。
目的が一致していた――つまりこの男にも、奈都を害したい理由があるようだ。それが分かるまで彼を信用などできるはずもない。
固く唇を閉じたままじっと睨み付けてくる渚を前に、黒岩はまた一つ苦笑を零している。薄暗い中でも分かる、皮肉めいた笑みだ。

「――朱藤奈都を殺す意味が俺の中でなくなった。あの娘を逃がした理由は、ただそれだけだよ」
「…それって、どういう――」
「俺の目的は父親の――朱藤隆司の前にあの娘の死体を持っていくこと。血塗れたウェディングドレスに身を包んだ死体をな。――なのに肝心のあの男があんなことになったなら、まるで意味がない」

不意に見せた冷たい瞳に、また背筋がぞっと凍る思いがした。酷い寒気につい腕を抱いたところで、ふと感じた違和感に眉を寄せて視線を下ろした直後、「…は?」またも呆けた声が漏れる。
いつの間にか渚の体は、この日のために買ったあのドレスではなく、全く見覚えのない真っ白なドレスに包まれていた。引きずるほどに長い裾。剥き出しの肩。――これは、ウェディングドレスではないか。

「な、に、これ…」
「悪いね、本当は朱藤の娘に着せる予定だったんだが…代わりにあんたに着させてもらったよ」
「…はあぁ!?」

先ほどまでの恐怖心などすっかりどこかへ消え去った。上げた大声がビルの中に響くのにも構わず、必死に体を両腕で隠して後ずさる。
何故渚にウェディングドレスを着せたのか。けれどその意図を探るより、それまで着ていたドレスの代わりにこれを着せられたということの方がよほど渚にとっては重大だ。

「だ、だってそれって、人の服脱がせ――」
「ああ、心配しなくてもインナーは脱がせてないから、下着も見てない。それにこの暗さだしな」
「そういう問題じゃない!」

思わず側に落ちていた瓦礫を掴み、黒岩に向かって投げつけたが全く飛距離が足りない。身じろいだ彼がまるでこちらに近付いてきたように思え、「来ないで…!」と掠れた悲鳴を上げた。黒岩はまるで抵抗の意思はないと言わんばかりにホールドアップの体勢をとっている。

「悪かったよ。…別に、乱暴するつもりだったわけでもない。信じられないだろうとは思うが」
「……」
「ただ、やっぱりそのウェディングドレスを血で赤く染めるのが惜しくなった…それでつい君に着せてしまった。…本来それを着るはずだった人に、君がなんとなく似ていたからかな」

――少し昔話をしようか。そう静かに語られる声に決して気を許したわけではないが、それでも渚の体からはほんの少しだけ力が抜けていた。とは言え、怪訝そうな表情だけは隠すこともできなかったが。

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