「――安室さん、少し宜しいでしょうか」

ようやく会長との話を終えたところで、今度は別の人物に話しかけられ、内心安室は辟易していた。しかしそんな感情はおくびにも出さず、あくまで好青年の仮面を貼り付けたまま振り返る。そこに佇んでいたのは声の通り西園だった。

「西園さん、どうしました?先ほど奈都さんと一緒に帰られたかと思ってましたけど」
「…そのお嬢様から、頼まれ事をされました」
「頼まれ事?」
「様子を見に行きたいから病院まで車で送ってくれ、と」

まだ近くにいる朱藤会長の存在を気にしてのことだろう。少しばかり密やかに発された声に、しかし安室は自らの眉間の皺が深くなるのを感じていた。
誰の、とは口にしなかったがこの場合、それが彼女の父親を示しているのは推理するまでもない。彼があえてその言葉を避けているのは会長を慮ってのことか。会長と娘婿である朱藤隆司との不仲は部外者である安室もよく知っている。
ちらと会長を一瞥してから、安室もまた声を潜めながら西園に事情を尋ねた。

「…あなたが奈都さんを送ってあげればいいでしょう」
「私はお嬢様には一刻も早くご自宅に戻られてほしいのです。先ほどの輩がまだどこを彷徨いているかも知れませんし、会長もそう仰っています」

なるほど、西園は元々会長に拾われ恩があると聞いている。彼の意向に従うのが当然といったところなのだろう。

「けれど彼女の押しに負けた、と」
「頼まれ事を聞いてもらえませんか?」
「…弱りましたね。僕もこれから用があるのですが」

ちらとポケットに視線を落とす。そこに入っているスマホに渚から連絡がきたのは少し前のことだ。なかなか戻ってこない、と思っていた矢先に届いた、先に駐車場で待っているというメッセージに僅かに眉を寄せたものだが。

(どうせ渚さんのことだから、仕事の邪魔になるからとか思ったんだろうが)

けれど「先に帰る」とは言わなかったのは、やはり先ほどの事件に対する恐怖心からか。二度とあんな凄惨な場面に彼女を立ち会わせたくないと願ったはずなのに、なかなか儘ならないものである。

(そもそも、披露宴が終わった後まっすぐ帰ってくれればこんなことにもならなかったのに)

引き出物の紙袋を持っていたから既に終わった後だろう。こちらに寄ったのはおそらく安室の様子を見に来たため。そこで運悪くあのルポライターに捕まったといったところか。あの男のことを思い出し、また安室の眉間に一つ皺が増えた。

(随分と馴れ馴れしい男だった)

あの肩に勝手に伸ばされた手に、誰より安室が一番不快感を示していた。
渚もあの男に対してそれなりに警戒心を抱いていたようだったが、安室から言わせればまだまだ甘い。あの時傍にいれば、その手が触れる前に叩き落としていたものを。

「安室さん?」
「…いえ。とりあえず駐車場に向かいましょうか」

ため息を漏らして、安室は西園を伴って車の停めてある駐車場へと向かった。
西園で無理なら自分で彼女を説得するしかない。どうしても折れないようならその場合は仕方ない、彼女を先に送り届け、その後渚を家に送ればいいだろう。帰るように奈都を説得するのは自分の仕事ではない。
エレベーターに乗り込み、駐車場のある階のボタンを押した。静かにドアが閉まる。しばらく狭い空間が無言で包まれた後、先に口を開いたのは西園のほうだった。

「…安室さん。一つお聞きしたいのですが」
「何です?」
「あなたはお嬢様をどのように思われているのですか」

唐突な質問に思わず目を瞬かせながらも、「さて」と困ったように笑みを零す。ひとまずは差し障りのない言葉を選ぶのが賢明か。

「素敵な方だと思いますよ。少々気の強いところはありますが、自らの感情に素直なところは好感が持てます。それに美人だ」
「では、相手にとって不足なしだと」
「はは、僕のような一端の探偵が相手だなんてとても恐れ多くて。しかもまだ未熟者です。確かに会長からそんな話を振られたことはありますが、あれはただの会長の気紛れですよ」

そんな風に適当に流して、開いたエレベーターのドアから外に出ていた。西園はまだ何か言いたそうだったが、それには構わず車の停めてある場所へと向かう。

「……?」

けれど車の前には渚どころか奈都の姿も見当たらなかった。西園を振り返ったが、彼も不思議そうに首を傾げている。

「確かにここで奈都さんに待っていてもらったんですよね?」
「はい。安室さんの友人だという女性ともここで会いました。…まさか二人でどこかに行ってしまったんでしょうか?」
「それも考えにくいですが…」

声は平静を装いながらも、どうにも嫌な予感がしてならない。スマホを取り出し渚に電話をかけたが、電源が切られているか電波の届かないところにいるという機械的なアナウンスが聞こえてくるだけである。
安室は辺りに視線を走らせた。地下の駐車場内は薄暗く、何か妙な点があっても見落としてしまう可能性は高い。だが鋭い彼の観察眼は、離れたところに落ちている片割れの靴を捕らえていた。

「あれは…」

慌てて駆け寄り、それを拾い上げた安室の目が見開かれる。近寄ってきた西園は不思議そうに眉を寄せた。

「靴?なんでそんなところに…」
「…西園さん。ここで奈都さんに待っているように、確かに言ったんですよね?」
「はい。ご友人の方もここで待っているようでしたが…」
「…もしかしたら、何かのトラブルに巻き込まれたのかも」

ポツリと零した言葉に、後ろで西園がはっと息を飲んだ音が低い天井に反響したように思える。けれど安室にもそれに構う余裕はない。
まさか逃亡したと思われた犯人がまだこんなところに潜んでいたのか。あるいは全く別の事件か――いずれにせよ、渚がそれに巻き込まれた形になったのはほぼ間違いないだろう。靴を片方落とし、放置するほどの事態になっていることは確実だ。
これは安室自身が彼女に選んだ靴である。見間違えるはずもない。
もう一度電話をしたところで結果は同じだった。つい舌打ちが漏れる。逸る気持ちを抑えるのが精一杯だ。

「――西園さん、戻りましょう。会長や警察にこのことを伝えなければ」
「わ、私はお嬢様を探しに行きます!」
「どこを探すっていうんです?警察の協力なしでは、我々だけでは無理があります。冷静になってください!」

冷静になれ、とは、しかしその実自らに言い聞かせているようなものだった。
安室とて今すぐにでも探しに行きたいが、今のところ手がかりもない。まず怪しい車がなかったか、駐車場の監視カメラ一つ見せてもらうにしたって警察の要請が必要なのだ。

「会長に知られたくないというあなたの気持ちも分かりますが…」
「私が職務怠慢で会長に叱られることなんてどうでもいいのです。それより、お嬢様が…!」

ほとんど顔色を変えないこの男の、こんな焦った表情を初めて見た気がする。少し意外に思いながらも、「早く彼女を探したいならそれこそ警察に頼まないと」と告げれば、ようやく彼は納得したようだ。
再び早足でエレベーターへと戻っていく。エレベーターが上がっていく感覚を感じながら、安室は手の中にある靴をぐっと握りしめていた。
まだ時計の針はゼロを越してはいないというのに、この靴の持ち主はまるで灰かぶりの姫のように姿を消したまま、果たしてどこに行ってしまったのか。

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