無知は幸福である


【失敗と成功について】
-Ignorance is bliss.-


昨日来た旅人さんは、とても優秀な人だった。
落ち着いていて度胸があり、私たちの文化を体験することにも積極的で、呑みこみも早い。

長老たちはすぐに気に入ったようだった。
その日のうちに話し合いをして、旅人さんを一族に入れることを決めた。
ラウハーは、それを静かに聞いていた。私は彼の立場を知っていたし、彼は提案を素直に受け入れた。
長老たちは喜び、一族は新しい血を歓迎し、決定を褒め称えた。彼はいつものように、それを灰色の瞳で静かに見つめた。



「旅人さんを、逃がそうと思う」
彼がゲルの中で絞り出すように言った時、私はそうね、と答えた。ろうそくの火が風で揺れた。
しばし静寂が続いた。彼がひとくちお茶を飲んで、私も口をつけた。
彼は碗を置いて、
「止めないのか」
一言言った。
「説得なんて、無意味だわ。あなたはやめないでしょう?」
私は答えた。彼が彼女を亡くしてから――私の親友だったあの子を失ってから、どれだけ絶望して、どれだけ苦悩したか。私は、ずっと隣で見ていた。
今は立ち直ったように見えていたけど、今回の事で思い出したのかもしれない。灰色の瞳が燃えていたのを、私は知っていた。
「私、あなたが好きだもの」
当たり前だった風習に初めて疑問を持ったのは、悩む彼を見てからだ。彼に外の話を聞いて、驚いて、考えて、考えて考えて、たくさんの事を思った。
いままでのアイデンティティを否定するのは辛くて怖かったけれど、彼がいれば可能だった。彼もまた、あの子がいればそれが可能だった。恋は能を狂わせるのだ。
その麻薬がない今、彼を留める術などあるはずがない。
「……俺は、妻をとる気はない」
「わかってるわ。私だって、あの子の後に好きになったのだし」
もとより、決められた結婚以外はできない一族だ。叶わない恋だとは知っていたし、言うつもりもなかった。私は諦めていた。
「ただ、新しい妻を取らないことを、私に言ってくれたのが嬉しかっただけ」
「そういう意味で言ったわけじゃない」
「もちろん。だけど、結果は同じよ」
私が言うと、彼は灰色の瞳を揺らした。すこしいじわるだったなと思いながらも、私は言葉を続けることにした。
「旅人さんを逃がす。あなたは妻を取らない」
長老の後継ぎとして、次世代を考えての発言だとしても。愛する者を奪われた、一人の男の復讐だとしても。
旅人という立場に対する感傷でも、他人を巻き込むことへの純粋なる正義感だとしても。
「失敗しても成功しても、待つのは“死”」
彼のそれは、革命と言うよりは、ただの反逆だった。
仲間もいない。計画性もない。未来もない。無謀すぎて、自殺と言いかえても良いくらいだった。
「なら、言っておきたくて」
彼はそれを行うことによって何かを得るのだろう。きっと私にはわからないのだろうけど。
「…………君は、」
「生きろなんて言わないわよね。愛する人の後を追いたくなる気持ち、わかるでしょう?」
被せるように発言すると、彼は黙った。ろうそくは半分溶けていた。


***


テントの中にいた私は、ただその様子を見ていた。
旅人さんがお茶を飲もうとしたら、なんとかして止めるつもりだったけれど、旅人さんがお茶を飲むことはなかった。
やんわりと、だが確実に断ってその場を立ち去ろうとした判断は、さすが一族に認められただけあると感心したほどだ。
私は混乱するテントの中で、旅人さんが走り去るのを見た。誰かが、どこに行ったのかと怒鳴っていた。私はあさっての方向を大声で示した。
何人かが騙されて散らばった。だが鳴り物の音がして、みんながそちらを向いた。
旅人さんも相当焦っているのだろうなと思った。申し訳ないことだが、私にとって、旅人さんの生死はどうでもよい。つい数日前に会ったばかりの人間に対する感情など、所詮そんなものだ。思い入れもない。
私は、彼が無事であることを祈った。奇襲の成否さえ、どちらでも構わなかった。

周りに人がいなくなったころ、私は目に入る草を全部集めた。私と、彼の分。しばらく暮らせるくらいだ。
彼は「子供たちに死んでいく様子を見せるから少なくていい」と言っていたけれど、私はできるだけ運んだ。少しでも長生きしてほしかった。
場所は、風上にある長老のゲルの裏手側。ここなら、火の手はまわらないはずだ。さいわい誰にも見つからなかったが、女の手で運べる量はたかが知れていた。

急いで移動する。草の中で一度大きく息を吸うと、くらりと眩暈がした。
腰の嚢から火付けを取り出す。火が上がり、あたりはたちまち白くなった。
私はすぐに場所を離れた。だが濃い煙を吸ってしまったようで、直後に視界が歪んだ。


気が付くと彼が赤くなった草原に立っていて、私は無事終わったことを知った。
呼びかけようとして、体が動かないのに気づいた。地面に寝ているらしかった。
痛みはないから、外傷があるのかはわからない。視界が半分赤い。
子供たちが彼に集まっていくのだけは、かろうじて見えた。

どさり、という音が聞こえた気がした。
苦しそうな様子はなかった。悲しそうだった。
私はすぐ追うことになるだろう。もうしかいがしろい。
かれにとってのせいこう、で、しっぱい、で

「じごくでまってる」

結果は、やはり私にとって同じだった。



---『Ignorance is bliss.』END
:無知は幸福である(知らぬが仏)


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人間論へ提出
羽鳥ピヨコ様、ありがとうございました!
(text by倉庫番号31



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