推しに尽くしたい話 | ナノ


▼ 4

「もしもし、悠宇さん?」
 年が明けて少し、今年初めて降谷零の家に帰ることができた。寝る前に梅昆布茶をいれて、悠宇さんに電話をかける。
「こんばんは」
 相変わらず彼女は僕の名前を呼ばない。
「えーと、あけましておめでとうございます?」
「あけましておめでとう。今年もよろしく」
「──はい。今年もよろしくお願いします」
 三が日を少し過ぎたが、定型文の挨拶をする。メールすらできていなかったから、正真正銘今年初のコンタクトだ。
「正月は何をしてたんだ?」
「実家で年越ししましたよ。おせちを食べて、初詣行って、地元の友達に会って、親戚の集まりに顔出して。そんな感じですね」

 小一時間話してみたけれど、降谷さんは、と彼女はやっぱり尋ねなかった。僕のプライベートに踏み込んではこないし、どうにも僕の名前を呼ぶことも避けている気がしてきている。年末と今日の通話と、メールと。やはり彼女はよく分からない。色々な人や物の話はする癖に固執する何かには触れないので、推しとやらの詳細は不明だし、酔いの中でさえはぐらかされたことを素面の彼女にそれとなく聞いたところで躱されるのだろう。もっと信頼を得てからだな。
 それからも写真付きの日記のようなメールは相変わらず頻度もさして変わらず続いている。バーの日に距離が近付いたと思ったのは僕だけだったらしい。彼女の僕への対応は何一つ変わらなかった。



 徹夜が続くとさすがにパフォーマンスが落ちる。組織の都合で気を張っていたところに公安の報告書の期限が重なって、仕上げて提出したのは日付が変わる少し前だ。明日の仕事を思えば、帰るよりも仮眠室で少し横になった方が良さそうだ。
 デスクに戻る途中に会った風見は、徹夜続きのはずなのに機嫌がいい。
「何かいいことがあったのか?」
「──い、いえ! 何も」
 なんの気なしに尋ねたのだが、風見は少し焦った手にしていた紙袋を僕の視界から隠そうとした。まさかそれを見逃すはずもない。
「なんだ、それは」
「あ、いや、これは」
 しどろもどろになりながら、百貨店のバレンタインフェアに乗り込んでチョコレートを買い漁った話をした。そうか、もうそんな時期だったな。潜入捜査官ともなると、登庁することも少ないし、まさか組織でイベントに乗じられたところで食べるはずもない。つまり僕にとっては完全に無縁のイベントなのだ。
「──好みをとやかくは言わないが……ちゃんとした食事をとれよ。体は資本だ」
「はいっ!」
 ビクリと背筋を伸ばした風見は、この様子だと食事に出るのを面倒がってチョコレートで済ませているのかもしれない。
「え、ええと、降谷さんも──」
「いや、いい」
 一度隠した紙袋を前に持ってきた風見を制する。迂闊に食事をできない僕を気遣ったのか、気まずさ故か。何もその程度の趣味嗜好など恥じることではないだろうに、どうにも居心地が悪そうだ。多少の空腹感はあるが、部下が楽しみにしているものを巻き上げる趣味はない。
「僕は仮眠してくるが、何かあれば呼べ」
「了解しました」
 仮眠室に向かう前に、デスクにほったらかしたケータイを回収して歩きながら開く。仕事に無関係な未読メールの中には、悠宇さんからのものも埋もれている。あくびをしながら数日前のそれを開くと、本文はなく、一枚の写真だった。ハッピーバレンタインと書かれたチョコレートタルトだ。
「あー、くそ、食べたい」
 眠気で忘れかけていた空腹感が蘇ってぼそりと呟く。
「すみません!」
 裏返った声で反応したのは、ちょうど近くのデスクに座って携行食を食べていた藤原だ。こちらを振り返って目を泳がせるのは、少しうとうとしていたからなのだろう。
「……違うぞ」
「すみません……」
 藤原は気落ちした様子で前を向き、一度頭を振って切り替えたのか、毅然と作業の続きを始めたのでそれ以上は声をかけなかった。
 バレンタインなんて無縁だと思っていたんだがな。まさかこれを量産したということはないだろう。かといって本命用なら、わざわざ僕に、他の男に写真を送るなんてこともしないだろうし。
 すぐに彼女のSNSを確認しつつ、一度止めた足を動かす。写真が送られてきた時は毎回照らし合わせているのだが、そちらにあげられていた写真といえば、送られてきたものより小ぶりで、文字もない。僕に送ったものの方が余程写真映えするにも関わらず、だ。遠い推しとやらのためなら、それこそネットにあげるだろうに。
 これじゃまるで、僕のために作ったみたいじゃないか。思わず、食べたいという迂闊な本心を文字にして送った。

 起きてからもう一度メールを見て、潜入捜査官の慣例を思い出して顔を顰めた。
 聞けば本命などおらず、これを渡す予定もなく、味見兼写真用だと言う。SNS用ではないのなら──「僕に送るための」写真、ということになってしまう。胸に仄かな期待が宿る。実は推しの次くらいに優先されているんじゃないか、と。色恋に関していくつか質問をすると、一人で生きていくライフプランがある、適当な相手を選ぶくらいなら独り身がいい、などという逞しい返答だった。
 推しの正体は未だ不明だ。どこぞのアイドルだかなんだかに操を捧げる勢いで熱中しているのだろうか。それでも、少なくとも、このタルトだけは僕へのバレンタインプレゼントで間違いないだろうから。
 ──だから、なんだ。僕と彼女は相容れない。潜入捜査官と守るべき一般人だ。近付き過ぎてはならない。ただ彼女の幸せを眺めるだけで充分だろう。



 彼女は人を疑うことを知らないのか。彼女の世界は平和だ。平和ボケしていると言っていい。酔った状態で夜道を歩くし、またもや簡単に僕の誘いに乗じる。かと思えばレベルをあげて物理で殴るなどと宣ってどうにも実用に向けてのトレーニングを開始したと話した。彼女の興味の手広さと行動のちぐはぐさに呆れつつ、心配なので悠宇さんが家に無事着くまで通話を続けることにした。本当に犯罪率と自分の性別を知らないとしか思えない。
「ただいまなのです」
「……おかえり?」
 おかえり、などと言ったのは一体いつぶりだろうな。少し言葉に詰まってしまったが、酔っ払いは気付きもしないだろう。それでも誤魔化すためという名目で、切る予定だった通話を継続して会話を続けた。
「──おやすみなさい」
「おやすみ、悠宇さん」
 酔っていても彼女は変わらず僕の名前を呼ばない。



「安室くんのタイプはどうだい?」
「僕ですか?」
 安室透としての活動もしなければ、組織に怪しまれる。いくつかの依頼を熟して私立探偵の体裁を取り繕うのは、欠かせない仕事だ。
 依頼主の僕より少し年嵩の男は、調査対象が向かいの喫茶店を訪れるまでの時間に退屈したのか、雑談を振ってきた。
「ほら、色々あるだろう。犬系女子とか猫系女子とか」
 なんとか女子、というカテゴライズが流行っているのは知っているが、それを聞いてどうするつもりなのだろう。いや、意味は無いのか。
「そうですねえ……」
「ウサギ? それともペンギンかな」
「ペンギン、ですか」
 聞き覚えのないラインナップに首を傾げる。
「あ、知らない?」
「ええ、犬や猫程度しか……」
 まさかペンギン歩きのことを言っているわけではないだろうが。昨日職場で聞いたんだけど、と男は得意気に語り出す。
「分析力に長ける現実主義で努力家、それでいて芯があって意外と行動力があるというギャップ! もう完全にうちの嫁さんなんだけどな」
「はあ……」
 その嫁の浮気調査中なんだが。どうにも調子のいい目の前の男に内心溜息をついた。

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