Raison d'être | ナノ


▼ ネイル

 ひと仕事を終えた昼過ぎ。私と七海は当然のように相棒の家で休息を取る流れができあがっていた。二人分の汚れてしまった服を洗濯機に突っ込み、先を勧められたシャワーで泥を洗い流す。急いでバスルームから出て体をふわふわのタオルで拭き、置きっぱなしのTシャツとスウェットに着替えて家主である七海とバトンタッチする。そろそろTシャツでは肌寒いが、昼間の室内なので許容範囲だ。
 七海の気配を感じながら髪を乾かし、リビングにゆったりと移動し、オレンジジュースを飲む。夜までまだ時間もあるし、何をしようかな。ぐるりと部屋を見回しかけた所で、テーブルに乗ったマニキュアボトルを見つけた。
「こんなところに」
 深い海のような青は、トレンドカラーだからと言うよりも、ちょっぴり見慣れた色でつい足を止めて、気付けばブランドの紙袋を手にしていた。確かその直後に仕事に呼ばれて、急遽泊まりになったから、ホテルで中身だけ鞄に突っ込んだんたったか。ポーチか何かを取り出したはずみか、その後この家で落としていたのだろうか。
「……私がシャワー浴びてる時に拾ったのかな」
 でなければ一言くれるだろうし、と結論づける。せっかくだから、七海を待つ間に塗ってみようか、とソファに座ってそれを拾い上げる。持ち上げ光に透かし、やっぱり可愛いな、いい色だな、とぼうっと見つめる。
「んー、足にしとこうか」などとひとりごちる。
 手でもいいんだけど、指先は、日常でも、仕事中でも、視界に入ってしまう。相棒の瞳の色だと、拾った彼は気付いているんだろうか。私はこの爪を見ても、きっと、いい色だな、可愛いな、と思うだけだ。彼の目があるような気がすると、むしろ、どこか心強いくらいで。
 もしかしたら、七海は、気にするかな。相変わらず、私達の同期にしては近過ぎる関係性を、皆に隠しているから。
 足をあげて、爪の状態を確認していると、七海がバスルームから出てきた。
「手じゃなくていいんですか? せっかく塗っても、見えないでしょう」
 首だけ振り向いて見上げると、濡髪で首にタオルを引っ掛けた七海がいた。
「じゃあそうする。塗ってるから、髪ゆっくり乾かしてきなよ。風邪ひくよ」
「ええ」
 相棒は軽く頷いて、戻っていった。何がしたかったんだろうな、と思いつつ足を下ろし、真新しいマニキュアを開封した。ベースもトップコートもないけど、まあ、いいか。後で換気しよう、そんなことを頭の考えながら、まずは左の小指にそっと色を乗せる。おしゃれしてはしゃぐのは、わりと好きだ。呪術師になる前、一般人をしてきた頃に散々試してきたし、学生時代はセルフネイルもそれなりにしたから、あの頃は、とむしろ懐かしささえ覚えて時間の経過を感じた。
 左手を問題なく塗り終え、一旦乾くのを待つ。不精してそのまま右手を塗り、うっかり崩してしまった過去は一度や二度ではない。生憎とここには速乾剤などないのだ。
「上手いですね」
 じーっと手を睨んでいると、七海が戻ってきて、左隣に座った。普通だよ、と返す。
「右は塗らないんですか?」
「左が乾くの待ち。ただでさえ利き手と逆で塗りにくいから、余計なとこ触っちゃう」
「では私が塗りましょうか」
「ん?」
「構いませんか?」
「……じゃ、お願いしようかな」
 体を七海の方に向け、右手を差し出す。七海はマニキュアのボトルに手を伸ばし、くるくるとキャップを回して、中のブラシを見ている。
「やったことある?」
「いえ、初めてです」
「ボトルのフチで量を調整して、真ん中の付け根から塗るんだよ」
「なるほど。では」
 彼の一回り以上大きな手が、私の手に指に、触れる。まずは人差し指にそっと筆を滑らせた。一回、二回、三回。至って真剣な顔つきで私の爪を塗っている。
「器用だね」
「どうも」
「最後に爪の先端、断面の所にも塗るの」
「分かりました」
 私の指を持ち上げ角度を変え、少量だけ乗せたブラシで先端をさっと塗り上げる。器用なのはどっちよ、と思った。七海は中指、薬指、と危なげなく塗っていく。見守る必要もないな、と少し身をかがめた七海の、伏せ気味の瞼と明るい色の睫毛を眺めた。仕事中はワックスで固められている前髪がぺたんと下ろされて、目元にかかって微かに揺らぐ。見慣れた男だが、普段と見える角度が違うと少し印象が変わる。悪い心地は決してしない。身体のうちにじんわりと広がる感情はなんだろう。
「佳蓮さん」
 マニキュアの量を調整しつつ、七海が口を開く。
「んー?」
「何見てるんですか」
「七海の顔」
「おもしろいですか」
「それなりに」
「そうですか」
 爪先とボトルばかりみる七海と視線が合うことはない。
「ビスケーベイっていうらしいよ、この色。トレンドカラーなんだってさ」
「そうなんですね。それで買ったんですか?」
「────ま、そんなところ」
 ちらりとこちらを見上げ、そうですか、と七海が呟く。言葉と顔に、僅かに含まれた温度。これは返答の間でバレたな、と直感した。最後の親指を塗る間、お互い言葉を発しなかった。ボトルをテーブルに置きつつ、どうですか、と七海から口を開いた。
「初めてには思えない。すごい。ありがとう」
「満足していただけて何よりです」
「あとはじっとしてるだけ」
「どれくらいかかるんですか?」
「ものによる。ここのマニキュアは初めてだからなあ。乾いてたのは表面だけ、とかもあるあるだし」
「なら待ちながら映画でも観ますか」
 相棒の提案に、私はすぐさま頷いた。

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