一歩の勇気 中
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道路は全部乾いているのに、バスが一台だけ、除け者みたいに濡れている。
屋根の上で水が列を作って揺れ、アクセルを踏まれて進みだした車体にしがみつきそびれた水の列が、段々離れて、後ろから零れていった。
「降り出したか」
おじいさんを振り返る。ちらりと見えた通路から、美味しそうな匂いとカートが行きかう様子が見えた。
おじいさんはいつも吟味している病院食より、僕を見て楽しそうに笑っている。
「ううん。でもバスが……」
「そうかそうか。そうら、近くなるぞ」
空が暗くなる。天蓋が低く降りてくる。
遠雷の音が、小さく耳朶を打った。
地面にカーテンが降りていく。
カーテンの裾が、近づいてくる。
陰が広がっていく。
色が鮮やかになった。
雫が窓を濡らす。土煙で燻った景色を洗い落としていく。
窓の下で葉も蕾も黄色くなりかけていた紫陽花に、蒼と緑が戻っていく。
これなら、きっと。
バス停に急ぐ人達が沢山いる。みんな雨に驚いて急いでいる。弾けるように立ち上がって、ベッドの下にある靴にすぐに履きかえた。
ガードルスタンドにかけてある点滴の量をちらりと確認した。半分以上ある。きっとこのぐらいじゃまだ看護士は来ない。
「おじさんありがとう!」
「行ってくるのか? お前さん体は」
「大丈夫、今日は調子いいから!」
「待った待った、そのまま飛び出したらいかん」
もしかして看護士に知らせるのだろうか。僕が身を固めると、おじいさんはベッド脇の引き出しへとゆっくり体を起こして、下の方の引き出しを開けたようだ。振り返って差し出されるものを見て、僕はびっくりした。
藍色の折り畳み傘だ。暫く雨に当たっていなくて、随分とかさかさとした乾いた音を立てている。
「これなら袖に隠して行けるだろう。気をつけてな。発作が出ないように、走りすぎるなよ。まーだいつもより時間はあるぞ」
「――はい。ありがとう」
暗く重たい色が、皺と年季を感じるやや暗い肌が、とても温かい。
大事に受け取って、袖の下に隠すと、思ったより中にものが入っているとわかる袖の揺れ方になった。おじいさんが笑って、ご飯は任せろと言ってくれた。なんだか悪巧みを一緒にしていた友達を思い出す。
通路へと出る。ガードルスタンドを押す音が、耳朶を何度も叩く。焦りたくなる足を、走りたくなる心を、頑張ってゆっくりになるように何度も何度も言い聞かせる。
歩け。走るな。ばれちゃ止められる。また発作が出ちゃう。
今は少しでも、ばれないように。気づかれないように。
雨音がエントランスに響く。何度も叩きつけるようにガラスを濡らして、くぐもったバチのような音を屋内に満たしている。
空は暗い。外の軒下にみんな避難してくる。平成の末に建て替えられたこの建物は、内装も明るくて、空の暗さが際立つ。
入口に溢れ返るむわっとした湿度も、普段は躓かないか気がかりな人ごみも、気圧での怠さも、心臓が高鳴る今は気にならない。
外に出られる。あの人に会える。
どんな絵だったのか、見せてもらえる。
ガードルスタンドを押す。小さな子をつれた奥さんが、怪訝そうに僕を見てきた。勝手に外に出ると、ばれるかもしれない不安が膨らんだ。
すっと、親子が去っていった。心の中でそっと息を吐き出した。
外に出る人を数人見かけて、それとなく後ろについていく。
音が変わった。
土砂降りだ。夕立ちの空の不機嫌さは酷くて、みんな駐車場やバス停や電車の駅へと急いでいる。傘を手に下を向く人達ばかりで、僕の事を見ている様子はない。
そっと、おじいさんの折り畳み傘を取り出した。
雨の音がひどく響く中で、誰も僕の事を見ない。と、思う。もう周りを見るゆとりなんて、きっとなかったと思う。
カバーを外して、傘を広げた。鉛色の空が藍色に隠れた。
軒下から一歩、一歩と足を踏み出す。
藍色が、パンと弾けた。
パン。パパパパ
ばばばばばばばばばば
音が何度も重なる。傘の上にいくつもの筋を作る。
そっと水に触れて、僕はつい顔がふやけて、ガードルスタンドを押す力を強めた。
病院内に停車するバス停は、今は帰る人でいっぱいだ。そろりと後ろをすり抜けて、門に向けて急ぎ足になる。
交差点を目指す。角を曲がる。街路樹から落ちた雨音が、通り過ぎ様に派手な音を立てた。まばらな人を追い越す。すれ違う時に驚かれる事もあるけれど、ここまで来て引き返せない。
左手に折れて、病院の外の塀が見える。塀が途切れた、開きっ放しの大正から有りそうな、古びた門が見える。その向こうを車が何台も行き交った。
走る。
雨音がスリッパごと足を濡らす。肺が久しぶりの運動で驚いているけれど、気にならない。病院用の服が濡れたってどうでもいい。
息が切れる。肺も少し痛い。あと少しだから、もってくれればそれでいい。病院に向かって歩いている人がそぞろにいて、僕を見て驚いた顔をしていた。
門に着いた。
すぐ目の前の信号が青になる。今なら渡って反対側の歩道に行ける。
あっちに行かないと、病室から見えていたバス停に行けない。急がないとバスが来るかもしれない。
肩で息をしながら、首を左に回した。
バス停は――あった。
人が沢山いる。スーツ姿の人も。よく目を凝らして、顔が綻んだ。
バス停で、傘を肩と横顔で挟んで、すっと立ったままスケッチブックを持っている人がいる。
足が止まった。信号が点滅する。
バス停で何人かの人が、僕を見てくる。ひそひそと何かを話している高校生もいる。全部気にならなかった。
スケッチブックを睨んでいたその人が、女の人だってやっとわかった。スポーツをやってる人なんだろう。ちょっとスレンダーな人だ。緩く束ねた髪を肩にかけていて、マジックペンを大きく動かす姿は、やっぱりバス停の屋根の下でも凄く目立つ。
信号が変わる。
なんとか渡ろうとして、足が痛む事にやっと気づいた。久々の運動で足の骨が悲鳴を上げているけれど、今はなんとか動かしたい。
横断歩道を渡って、もう一度左を見た。心臓が止まるかと思った。
バスが来る。
慌ててバス停まで走る。病院でリハビリしかしていない足じゃ、すぐに段差に躓いて転びかけた。見知らないおじさん達が大丈夫かと聞いてきたけれど、すぐに頷いて、顔を上げる。
お姉さんが、驚いた様子でこちらを見ていた。
バスが、止まってしまう。
ちらりと行き先を見て、お姉さんが少し困り顔で、こちらを見てくる。
乗らないでと、声を上げたい。
なのに目が合うとできない。
何人かの人に向けられた目に体が竦む。顔が熱くなった。
今の僕の格好は、パジャマだった。
でも、でも……ここで引き返したら、きっと、次は会えない。
だってもう、もう……
バスの音が、お姉さんの前でタイヤと一緒に止まった。
慌てて顔を上げると、お姉さんはバスを見上げて、スケッチブックをしまおうとしていた。あっと口を開けるも、傘も閉じて、バス停の屋根の中に入っている。
バスが止まる。扉が開く。
行き先を告げる音――
「ま、って……」
声がか細く消えた。
雨の音にかき消される。傘の上で激しく叩く音が、笑いながら体を重くしていく。
顔を上げられなくなった。視界がぼやけそうになって、きつく目を閉じる。顔を上げ直して、バスに乗ろうとする人の列の後ろへと、ガードルスタンドを押していく。
「あの、すみません」
声は小さかった。女の人は気づいた様子がなかった。
「あ、の……あのっ」
驚いて向けられた目は、焦げ茶色。ちょっと大きくて、戸惑ったような顔をしていて、なんだか恥ずかしくて顔を向けられなくなりそうになる。
「あの……その……」
なんて言おうかなんて、言葉が出てこなくなる。
肩が上がったまま、荒い呼吸を整えても、言葉が出てこない。思いつかない。
近くにいた人達が変なものを見る目をしていて、体が竦む。
でも。
「あの、さっきのスケッチブック、いつもここで、か、書いてた人じゃないかな、って」
「え」
「ま、前手を振ったら、振ってくれたの見えたから、も、もし違ってたらその、ごめんなさい……!」
心臓が、勝手に暴れ狂う。右も左も前も後ろも、上にも下にも。好き勝手に跳ね回る。
肺がその度に苦しくなって、息が詰まって、変な息継ぎになる。
「ど、どうしても、気になって……何書いてたのかなって……退院する前に、教えてもらいたいなって……」
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