一歩の勇気 下
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居心地が悪そうな顔だった。
傷つけちゃったんだ。凄く、嫌そうな顔をしている。バスが出ていって、残った人達が変なものを見る顔をしていて、きっとこの人も凄く嫌なんだ。
僕の勝手な行動のせいで、嫌な思いをさせてしまっているんだ。
もう、頭を上げられなかった。
「……ご、ごめんなさ」
「ごめんね、違うの」
え。
何を言われたかわからなくて、僕は体が強張った。そろそろと顔を上げると、お姉さんは困った顔で笑っている。
「君だったんだ、手を振ってくれてたの。ごめんね。私ちょっと目が悪くて、てっきり別の病室の、知り合いが振ってるのかなって思ってて……」
僕にじゃ、なかったんだ。
スケッチブックを取り出される。恥ずかしそうに。
「それと、絵を描いてたわけじゃないんだよ」
ちょっと荒っぽい字がよれよれの紙の上で怒っていた。
『うじうじするな!』
恐る恐るお姉さんを見上げた。お姉さんは恥ずかしそうなままで、こそばゆそうに笑っている。僕が見ていいのと聞く前に、お姉さんは僕にスケッチブックを渡してくれた。
――ページを、捲った。
『この間はごめんね』
湿気た紙を、また一枚。
『またお見舞い行くね』
はらりと。
『絶対なんとかなるよ』
もう、一度。
『リハビリお疲れ様』
次を――
『今日は元気?』
『もう一社受けるよ』
『夕飯食べた?』
『一緒に頑張ろう』
『次こそ受かる!』
『今日も頑張ったね』
『もう怒ってない?』
『今度は色紙持って行くね』
『ごめんねでもまだ
一緒に頑張ろう』
字がぼやけた。
格好悪いぐらい、ぼろぼろと涙が零れてくる。お姉さんが声を上げた気がした。何度も何度も涙を拭いても全然目の熱は冷めてくれない。
どうしてこれを書いたのか、なんて、聞かなくてもわかった。
黒が字を書かなくても、白が後ろから語っている。握り締められた端々のしわが、訴えている。
お姉さんが僕を見た時の、あのぎゅっとしわになった眉が、目が、言っていたんだ。
見てほしかった人に、願いを込めてたんだ。
そっと差し出されたハンカチを、掠れた声でありがとうと言って受け取るしかできなかった。
「こんなの見せるの、やっぱり恥ずかしいな……」
「ううん。お姉さん、かっこいいです」
お姉さんは何も言ってこなかった。今日も掲げる気だった、一番新しい生乾きの字は、すっかり縁が雨で濡れている。
パジャマの裾で水を吸おうとしても、パジャマのほうがぐしょぐしょだ。申し訳ないまま、傘を肩にかけた不恰好な姿で、お姉さんにスケッチブックを返して顔を拭った。
「ありがとう、ございます……」
「こっちこそ。でも、かっこいいなんて言われるような事じゃないよ」
お姉さんは凄く、苦しそうな笑顔だ。僕はううんと首を振った。
「きっとその人、もう怒ってないと、思います」
僕だって、遠くだったからこの字は見えなかった。
だけどこの人が見せようとした人も、見えなかったわけじゃないと思う。
「お姉さん、雨の日ずっとここで、スケッチブックを掲げてたんですよね。きっと、その人も見てると思います」
僕だったら。
なんて書いてあるか、気になった。その人だってきっと。
「持って行って、見せてあげてほしいです」
「けど……」
「僕は嬉しかったです」
お姉さんがぎょっと驚いた顔をした。
「僕、今日スケッチブックを見せてもらって、凄く嬉しかったんです。だからきっと、その人も嬉しいと思います。見ないより、見るほうがよかったって言うと思います」「怒らせちゃったんだよ? 私がひどい事言ったせいで」
「ずっと怒るほうが、患者(ぼくら)って疲れちゃうから。これ見たらきっと、喜んでくれると思います。今日お姉さんに会おうって、勇気を出してよかった」
まっすぐ見上げて、お姉さんの眉がきゅっと寄ったのを見て、あって僕は肩が竦んだ。慌てて言葉を探して、目が道路のあちこちを見てしまう。
「あの、その、他人な僕が、言うなんて、その……」
「ありがとう」
お姉さんは僕の肩を優しく叩いてきた。お姉さんの黄色と白の傘がパンと開く。
「うん、行ってみる。うじうじするなって自分で言ったんだもんね。君も病院に戻ろうか。風邪引いちゃうよ?」
弾けるように顔を上げた。
雨音が嘘みたいに耳に入らなくなって、お姉さんのくすぐったそうな笑顔に僕も笑った。
「はい!」
病院までの道は、行く時よりもドキドキとはしなかった。
ただ嬉しかった。
その夕方。スケッチブックを掲げ続けたお姉さんと、たった一歩の勇気をくれたおじいさんと、ただ待って見ていただけの僕の世界が、変わった。 僕らを見ていただけの人は、患者が外に飛び出して、とか、パジャマ姿で外に出て、とか、きっと怒っただろうな。でも、ちょっとだけ、みんなとは違う時間があって、僕らが少し変われたなら、それはただのバカなお遊びじゃない。
そう、胸を張って言える。
このバカなお遊びに、違う言葉をいつかつけられるなら。僕は多分、もっと大きな声と自信で、こう言うんだ。
たった一度だけの、かけがえのない経験です。
だって、きっともうできないと思っていたことに、もう一度挑戦しようって気持ちが戻ってきたんだから。
諦めるな! って言葉が。
一緒に頑張ろうって応援が。
僕に向けてじゃなくても、胸にズドンと来たから。
それでも、病院の入口で待ち構えていた先生達に怒られる時、お姉さんが一緒に謝ってくれて、凄く申し訳なかったけれど。
先生からの検査が終わったら、お姉さんが病室の近くで立って待ってくれていた。親指を上に立てて、今日一番の飛びきりの笑顔で迎えてくれたんだ。
僕の同室のおじいさんが、お姉さんの隣で照れ笑いを浮かべて、禿げた頭を撫でていたのには驚いた。
紺色の折り畳み傘を返した。おじいさんの手にあったスケッチブックを見て、僕はちょっと、胸を張った。
一緒に退院しようなと言ってくれたおじいさんの目の皺はいつもより数が減って、顔を出した夕陽に照らされて、若々しく見えた気がした。
あと、お姉さんから言われた事は。
次は医者にも言わず、パジャマで飛び出さないように。
エブリスタ投稿作品
平成30年6月 完結
* あとがき *
短編書いてたんかーい! って感じですが、リハビリがてら書いていました。こちらへの掲載が遅くなったのは完全に葉月がすっぽ抜けてたからですすみません!(^_^;
エブリスタのほうでは秋月優希と名前を変えております。HNまた変えたのかって感じですね。いえ、両方使います……(笑)。
おっと、閑話休題。本編の内容に戻りまして。
雨の日、という題のコンテストに応募した際の作品です。選考文字数オーバーで出しただけになりましたが、雨と聞いて入院をしていた頃の自分は、雨を見るだけだったなあ。見舞いに来てくれた親を見送るだけだったなあ。なんて考えて書いていました。
今回あえて、『僕』も『お姉さん』も、『おじいさん』も、背景は一切明かしておりません。大事なのは背景じゃなく、あくまでこの出来事という世界が変わった瞬間だけを切り取りたかったんです。
……かっこつけましたがぶっちゃけ、文字数これでオーバーしてるんだから入れようがなかったんです(視線逸らしたぞ)。
誰かにとっては別に代わり映えのない日常でも、すぐ隣の別の人にとっては決定的に世界が変わって見える出来事。
そんな日が、一日くらいあってもいいですよね(*^_^*)
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