一歩の勇気 上
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 晴れてる。
 別になんて事はない。青空だ。小学生の頃、運動会で歌わされたような白い雲がぽつぽつと転がっていて、水彩というには濃すぎる蒼穹が、今日は紫外線が一段と強いぞと教えてきた。
 もう八日目だ。雨はまだない。
 もう一度あの土砂降りが来れば、きっとこの窓の先にあるバス停に、あの人が立っているはずなのだ。絶対来るって、頷いていたから。
 雨はまだ、来ない。
 テレビで予報を見ても、スマホのニュースを確かめても、明日も雨はないって言う。
 灰色しかない塀は見飽きたし、白さと清潔さを保ったベッドも座り飽きたし寝飽きた。点滴だってもう外したい。針を留めたテープが痒くて仕方がない。
 雨が来れば、また会えるのに。
 夕方に抜け出せるチャンスはきっとあと一回だ。夕立ちだっていい。あの時間に雨が降ってくれればそれでいい。
 サラリーマン達がくたびれたスーツとしつこく浮かぶ汗でぐったりした姿も、もう何度も見た。今日はちょっと髪が薄くなって、同じバス停にくる女子高生達をうるさそうに見ている人だ。ご機嫌だった。いつもより足取りが軽くて。
 ――よかったね。僕が探してる人じゃないけど。でもよかった。
 入道雲は見えなかった。それでも、あの人が来るかもしれなくて。待ちきれない。
「また今日も空を見ているねえ」
 隣のベッドのおじいさんだ。声をかけられて、僕は声を出せないままに頭を下げた。
 別に悪さも粗相もしてないからか、とても気に入られているみたいだ。ちょっと厳つい骨つきで、背が小さいおじいさんは、元は凄いサッカー選手だったといつも自慢話を喋ってくる。きっと草野球ならぬ草サッカーの選手だったんじゃないだろうかって、勝手に推測を立てていた。
「今日も雨は降らんとさ。洗濯物もよく乾いたろう」
「そう、ですね」
「坊主はなんで空ばっかり見てる。雲が好きか」
「嫌いです。けど雨が降ったら、来てくれるかもしれないから」
「父ちゃんか」
「ううん」
「母ちゃんか。それともじいちゃん、ばあちゃんか」
「違います」
「うん?」
「……僕も名前、知りません」
 力弱く、からからと笑われた。
「どこに住んでるのかも知らんのか」
「知らないです。でも、雨降ったら、また来てくれるから」
「そうかそうか。じゃあ普段は自転車なのかもなあ」
 あっと、僕は目を丸くした。後ろからおじいさんが重たい腰を持ち上げて、僕と変わらない背丈で、ちょっと曲がった腰を揺り動かして、足を引きずってこっちに来る。
「そこのバス停だろう。どんな人だ?」
「多分、社会人。雨の日だといつも、バス待ちながら絵描いてる人」
「男か、女か?」
「うーん、遠目だけど、スラックス履いてた」
「スラ……なんだ、ズボンか?」
「スーツの、ズボンです……」
 たまに感じる、世代のずれ。きっとこの人だって履いてきた経験はあるはずなのに、言葉が通じないのはちょっと困る。
 おじいさんは薄茶髪になった薄い髪を撫でて、遠くを眇めた。
「この辺じゃあ会社は少ないな。病院関係者なら、坊主が出てくるところを見とろう」
「見た事ないです」
「うん。なら、スーツを着るような会社の人間って事だ。そこのビルの中かもしれんな」
 皺とごつさが目立つ指が、製薬会社のビルを示した。昔から建っているみたいで、コンクリートが随分と古く、灰茶色になっている。
「あそこにいる……?」
「入口で待っていれば、もしかしたら会えるかもしれんな。退院できたら会ってみなさい」
「……ありがとうございます」
 おじいさんがベッドに戻っていった。重たい足取りで、体を動かすのもまだ億劫なんだなってわかる。点滴は外れても、体力が戻るわけじゃない。
 おじいさんがいつもの日課で、またテレビをつけて見始めた。パジャマの裾をぐしゃぐしゃに握って、黙って自分のテーブルの麦茶を飲む。
 雨は、まだ降りそうになかった。


 きっと、雨の日じゃないとわからない。
 だってあの人は、スケッチブックに絵を描いていた。いつもこちらを見上げて、手を振ってくれて、振り返すとまた、絵を描いている。
 絵が完成したら、こっちにかざしてくれるけれど、どんな絵かわからない。
 あの絵が知りたい。白い紙に走った黒の線が何を形作っているのか、見たい。
 雨が降ってくれれば。
 今日も晴れ。
 翌日も晴れ。
 翌々日も。次の週になっても。
 天気予報はおじいさんの机から流れてくるニュースでわかる。空梅雨だと、わかりたくもない季節の話はすぐに現実と共に頭に入った。窓の下に見つけていた紫陽花もすっかり喉がからからみたいで、葉に黄色みが増している。
 てるてる坊主なんて子供っぽいだろうか。屋上に行って雨が降るかどうか、確かめてみようか。まだ検査の時間じゃないし、トイレに行く振りをしたらきっと、屋上に出たって看護士にもばれないはずだ。
「ああ、坊主」
 またおじいさんだ。ここのところ、ちょこっと咳き込んでいて、大丈夫かなって、僕は顔を上げておじいさんを見やった。
「もうすぐな――雨、降るぞ」
「えっ」
 空は青い。入道雲なんてない。
 梅雨だって言うのに降ってくれない雫を探して、僕はもう一度おじいさんを見やった。
「なんでわかるの」
「長年の勘だな。傘持ってる人、いないか?」
 塀の向こうを見やる。塀のそばの、ちょっとくすんだ緑達には目もくれないで、もっとその先を。
 ――大抵の人は傘なんて手にしてない。空を気にする人はいても、暑いから、すぐにペットボトルの飲み物を飲んでいる。
「ううん。いないよ」
「そうか、みんな夕立を忘れてるな」
「天気予報じゃ今日も降らないって言ってたって、おじいさん言ってましたよね」
「ところがな、降りそうだ」
 なんだか変だ。おじいさんがおかしそうに笑っていて、僕はそっとスマホの天気予報のアプリを見た。
 晴れのマークがつらつらと縦に並んでいる。そのまま日が落ちてしまって、次の日が始まってほしいぐらいに。
「天気予報はな、昔は三割しか当たらんと言われてたんだ。ところが今じゃ、七割だとか八割だとか、とかく上がってるなあ」
 じゃあ、当たらないんじゃないか。そう言おうとしたら、おじいさんはいたずらっぽく笑って、お腹を撫でている。
「ところが、天気予報士と同じぐらい、いい命中率もあるもんだ。ようっと、外を見てごらん」
 外をじっと見下ろした。スマホの上の晴れマークは暗く消しておいた。
 窓の雨汚れが気になるぐらい、ずっと見つめ続けた。
 バス停に人が増えた。バスに乗って去っていく。降りる人は――一人二人、いるかどうかだ。
 バス停にはまだ人がいる。人が次々、向かい始めてくる。いつもあの人がくる時間は、もうすぐのはずだ。
 雨の音も、降りそうな雰囲気だってない。またバスが人を乗せに来て、去っていく。
 また人が来た。
 バスが来た。人を乗せて、去っていった。
 バスが来た――
「あ」
 バス、濡れてる。


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