その針、進む先で
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鈴の音。
段々と寂(さび)れつつある扉を珍しく開けてくれた、身なりの整った男性を前に、リックは慌ててカウンターから降りて大きな声を出した。
「いらっしゃい。父さん、お客さんだよ!」
父が降りてきた。手の中のネジをポケットにこっそり直し込んで、調節用の小さなドライバーは、蓋(ふた)が開きっぱなしの工具箱へと音を立てないよう滑り込ませる。
接待の声が聞こえる間は、カウンターの奥の階段を上って、自室で待たなければいけない。カウンターの下の隙間に隠れていた時、大事な話だったのか盛大に怒られた事があって、あれ以来どうにも上で待つ癖が直らなかった。
だから父に呼び止められて、経営を学びなさいと言われるなんて、十歳の彼は思ってもみなかったのだ。
恐る恐る見上げて、髭と髪が顎のラインに沿って繋がっている父の無骨な顔に躊躇う。
「いいの?」
「店の跡取りはお前なんだ。自覚を持ちなさい」
「は、はい」
どうにも、父は苦手だ。必要最低限の事しか言ってくれないし、それも大抵、自分を叱(しか)るものだけ。
それにしてもこの身なりのいい男性は、いったいどうして、こんな寂れかけた時計屋なんかに来たのだろう。
「失礼。ようこそお越しくださいました。本日はどのようなご用件でしょう」
「いや。最近時計の調子がおかしいと感じましてな。老舗(しにせ)のこちらに任せれば、直るかと思いまして」
しっかりとした声。通りがよく、聞く人を落ち着かせるような男性だ。はぁと感嘆の溜息がこぼれそうになって、慌てて口を噤(つぐ)む。整えられた顎鬚の向こうで微笑ましく笑ってくれる男性に、ほんの少しだけ笑みがこぼれた。それも、すぐ父の鋭い視線に射抜かれて、背筋も表情もピンとしたものになってしまったけれど。
父はゆっくり、程よい速さで頭を下げ、上げていた。
「嬉しいお言葉、ありがとうございます。よろしければ時計をお見せいただいてもよろしいですかな?」
「ええ。どうぞ。三十年ほど前の品で、同じ製品が出回る事が少ないものだと聞きまして」
鷲だ。中央に翼を大きく広げた鳥と、周囲に囲いを作るように枝葉が。鷲の真下には菖蒲(アイリス)の花や藤の実が美しい彫刻が、金色の蓋の上で煌いている。
父は布で(クロス)丁寧に受け取ったその懐中時計を、しばらくじっと観察していた。まず針の動き。時間調節をするネジを、客に許可を取って回してみて、状態を確かめている。
「――開けてみて状態を確かめない事には、はっきりと申し上げられないものですが、恐らくは歯車を止めるネジが緩んでいるのでしょう。この程度でしたら、そうそう時間もかからず修理が可能かと。念のため他に異常がないか点検してお渡ししたいのですが、お時間を頂いてもよろしいでしょうか」
「ああ、ネジが。そうでしたか。小さい頃、祖父からもらったプレゼントでして。どうか、よろしくお願いします」
まるで、子供を預けるかのようで。
恭しく頭を下げた父は、ほっと胸を撫で下ろしたような客人の男性に、柔らかな笑みを見せていた。店の前まで送り、リックもついていく。
客人が、ありがとうございますと頭を下げてくれた。リックの頭をくしゃくしゃと撫でてきてくれ、驚く。
「小さな見習いさん。頑張って、お父さんの後を立派に継(つ)いでください。きっと私の息子が、孫が、ひ孫が。あなたのお世話になりにくるでしょうから」
「うっ、うん! あ、はい!」
微笑ましそうに、また笑ってくれた。
あの優しい笑顔にもう一度会った時。
男性は大切な子供が元気になって帰ってきたように、嬉しそうに何度も、何度も父に礼を述べていた。
父の後を継ぐ。
小さい頃から当たり前に思っていた事を、あの男性は大切な事のように、頑張ってと応援してくれていた。
当たり前になれるものだと思っていたのに、初めて見る父の接待の姿は、色んなものが不思議に見えた。
頭を下げる時だって、床に落ちたものを拾う時はあんなにゆっくりじゃない。もっと早くて、例えるなら鶏や鳩が餌をついばむみたいに、俊敏だ。
修理する時もお客に待たせるのは失礼だと言って、ひどい時は二日以上徹夜をして、時計を直す。あんなに細かいパーツを、普通のドライバーよりうんと細く小さい道具を使って、繊細な作業を一昼夜ずっと続けているのだ。
だからリックが店番をする。客が来るまでの間が、父の唯一の睡眠時間のようなものだった。
きちんと寝ればいいと思う。目の下にあれだけ寝不足のくまができあがっていれば、客だって心配するはずだ。
それでも父は、寝不足を態度に出さない。現に今もまたリックに店番を任せ、奥の工務室で黙々と時計を直している。
あんな背中をずっと見ていると、段々時計屋になりたくないと思ってしまっていたのに。
鈴の音が響いた。あの男性以来、二日ぶりの客だ。
ぱっと顔を上げ、リックは「いらっしゃい」と声をかけようとして、目を丸くした。
少女だ。リックよりも小さくてあどけない、それこそ六、七歳ぐらいの。
修道女なのか、黒髪に焦げ茶色の幼い瞳に合うように、プリーツのついたスカートと、水夫が好むような、裾を縛った上着。幅広の襟の後ろには十字と日を簡単に縫い付けられたマークが見え、扉をおどおどと閉めた少女がぱっとこちらを向いてきたのを見て、リックは一瞬どきまぎしていた。
「い、いらっしゃい。どうしたの?」
普通、時計の修理はお金がかかるから、大人が頼みに来るものだ。時計の修理の技術はそれだけ難しいし、価値もある仕事であると、父から聞いていた。
少女は何に驚いたのか、一瞬飛び上がるように身を竦め、ぽっと顔を赤らめたではないか。年頃の少女とも遊んだ事がないリックは、一瞬怒らせたのかと身を固めてしまった。
「あっ、あのっ。と、時計、壊れちゃったの。直る?」
「時計? あ、えっと――父さん! お客さんだよ!」
返事がない。どうしたのだろうと思って、階段へと少し顔を出すが、少女を待たせるわけにはいかないと慌てて前を向いた。
「えっと、直せるよ。見せてくれるなら」
言って、しまったとすら思った。少女の表情が花開くような笑みを広げた瞬間、父のあの接客の様子が頭をよぎったのだ。
簡単に言ってよかったのだろうか。直せない懐中時計の種類はいくつか知っているし、ものによっては同じサイズの歯車や、それを留めるための細かいパーツのサイズが合わない事がある。特に歯車はきちんと形の合うサイズを嵌めてやらないと、隙間ができたり、逆に歯が上手く噛み合わなくなってしまう。上手く針を進められないどころか、他の歯車にまで影響が出たりするほど繊細なのだ。
この店に置いている懐中時計や壁掛け時計などの歯車やパーツの予備は、確かにある。もし歯車がイカれているならば、きちんとした品番のものが店にあるかは、リックも想像がつかなかった。あまりにも当てずっぽうすぎたと後ろめたい。
そんな彼に気づいていないのか、少女はポケットをごそごそと漁っている。手の平に出しては違うとしまっていく中には、簡素なべっこう飴の飴玉や、宝物なのだろうガラス玉。人形の洋服なのだろう小さな上着にと、思わずくすりと笑いたくなるようなミニチュアばかりが出てきているではないか。
やっと引っ張り出したのだろう。少女は銀色の鎖を引っ張り出し、目が輝いている。
「これ! お母さんがおばあちゃんからもらったものなの。アンナがもらったの!」
「ちょっと手にとって、見せてもらっていい?」
頷いてくれる少女から受け取ろうとして、「ちょっと待って」と慌てて声をかけた。父が普段しまっている場所から布を取り出し、慎重に受け取る。
針の進みが止まっている。ネジを回してみて、懐中時計を耳に近づけてみた。
ッチ、ッチ、ッチキ、ッチ……
――何か、音が変だ。歯車が噛み合っていない? 歯車の歯が欠けている? ネジが外れている……?
懐中時計を耳から離して、「ありがとう」と言いつつ少女に返した。不安そうにする少女に、リックは微笑んだ。
「直せる……?」
「うん、直す。三日もらっていい?」
「アンナ、明日お引越しなの」
目を丸くした。不安そうな少女に、リックも思わずあたふたとしてしまう。
どうしよう。明日引越しなら、明日渡せなかったら大変だ。備品と同じ歯車が使われていなければ取り寄せに時間がかかってしまうし、とてもではないけれど明日中に修理が終わるとは思えない。
こんな時なのに、父さんったらまだ寝ているなんて!
「――引っ越すって、どこに?」
「バーミンガム」
また随分と離れた街だ。とてもではないが、届けに行く事もできそうにない。父に話も通っていないし、予算を組んでももらえないだろう。
顔立ちを見ても、恐らくは日系イギリス人だろう。名前を手がかりに探すとしても、バーミンガムが田舎だったのは何世紀も前の話だ。今や工業技術が発達して、ロンドンほどではないにしても大きな都市になっているのに、探せるだろうか。
この近くならまだ、届けられるとは思っていたのに。
「……明日引っ越すなら、引っ越した所の時計屋さんに見てもらったほうがいいかもしれないね。お兄ちゃんじゃ、そこまで届けられないから。すぐ動いてほしいだろ?」
さらに不安そうになっている。リックは頬を掻き、気まずさを心から追い払おうと必死だ。
届けられない。子供の足じゃ、あそこまで遠いのは百も承知だ。馬車を頼んで、やっと歯車なんかの部品を調達しに行くぐらいなのだ。
まだ戦争が終わった名残もあって、許してもらえる気がしない。
少女が僅かにもじもじとしている。やがて慣れてはいないけれど、頑張ったような笑みを見せてきた。
「お兄ちゃん、アンナの時計、お願いね」
「え? でも、引っ越した後届けられな――」
「アンナが大きくなったら、取りに来るの。アンナ、まだお金持ってないから、いっぱいお仕事して、おしはらい≠キるように頑張るの」
はにかんだ笑みが、かわいらしい。
なんだか胸を締め付けられるようで、リックはただうんとだけ、頷いた。やっと見せられた笑みで、カウンターから身を乗り出して、少女の頭を撫でる。
「じゃあ、大切にお預かりします」
「うんっ。お願いします!」
嬉しそうな笑みが、くすぐったい。
――父の気持ちが、やっと分かった気がした。
小遣いが減ってもいい。しばらくなくったって構わない。
父さんに頼んで、なんとかして直してもらおう。
「――そうか」
「うん。お願いだよ、父さん。アンナの時計、直してあげて」
じっと時計を見ていた父の鋭い目が、自分を射抜いてきた。びくりと怯えたリックは、やはり言うべきではなかったかと身を固くする。
懐中時計をすっと返された。突き返すほど乱暴ではなく、丁寧なのに、心がずきりと痛む。
「これは私が請けた仕事ではない。お前が請けた仕事だ。生半可な気持ちで受け取るぐらいなら最初から断りなさい」
「で、でもっ」
「仕事を甘く見るな。人の想いを預かっているんだぞ」
ランプの火に照らされた父の顔の、深い影。ただでさえ怖い顔が、余計怨霊のように見えた。
「この時計、アンナちゃんはお母さんからもらったといっていたんだろう。そのお母さんはおばあさんから。何代も大切に使われてきた時計を、お前は預かったんだ。その子の直したいという気持ちを、お前は預かったんだろう」
胸をぐっと、押されたような気分だった。
テーブルに向かい、修理を頼まれていた時計と向き合った父は、その手を休めてアンナの時計を差し出してきている。とても狭い作業室は、机のおかげで半分も空間を埋められていた。
「ただ時間を進められるようにすればいいものではない。人の思い出のものを預かって直すとは、そういうものだ。よく考えなさい」
アンナの時計を包んでいた布ごと受け取り、俯いた。
直してもらえない。自分ではきっと、間違って直してしまうかもしれないのに。
「お前はまだ接客も下手なんだ。きちんと学んでから、丁寧に修理して返してきなさい。返事は」
「……はい、父さん」
よく分からなかった。父さんが魔法のように修理していくのを、何度も見てきたのに。
俯いて、黙って部屋を出るしか、できなくて。リックは自室まで一直線に走り、扉を勢いよく閉めた。
握り締めたままの時計は十歳にはやや重みがあり、その手の中で微かに伝わる、修理師を目指しているから分かる振動が、音が、苦しい。
あの笑顔が見たいのに渡せない。直せない。
直すと言ったのに
しばらく扉にもたれて、目を乱暴に拭く。奏でられる鎖の音が心苦しくなり、手を止めて考える。
床の板の目ばかり追っていた視界を一転させて、リックはやっと、手の平の弱った命を見やり、机に向かった。
夜もふけつつある中。
二階のリックの部屋は、一階の作業室よりも長く、その明りを灯し続けていた。
「リック。リック!」
「ぁっ……嘘だろ、いい所だったのに……! 何、父さん!」
七年が、過ぎた。
未だにあの懐中時計は直せておらず、あれからあのアンナという少女の話は、いくら町の友人や近所のおばさん達に聞いても耳にする事はなかった。
当時自分が思っていた以上に造りはそう複雑には感じない時計ではあったが、あれから壊れて預けられた時計でこっそり練習するうちに、ただ直すだけではいけないような気がして、しまいこんでいたのだ。
集中が切れて、厚みが一、二ミリあるぐらいの小さな歯車が床のどこかに落ちてしまった。普通なら見つけられそうにも感じないが、この七年間暗い中でも修理の練習をし続けてきたリックにとっては、スコーンの中に入っているジャムの味を当てる程度に慣れたものになっていた。
ひょいと摘み上げて机の上に置き直した彼は、すぐに階下の店へと降りていく。大抵父が呼ぶとしたら、そこにいるに決まっている。
案の定小さな客の相手をしていた父は、降りてきたリックを見てやや顔をしかめていた。
本当に、七年前よりくまがひどくなっている。
「遅い」
「すみません」
素直に謝っておこう。実際時間をとったのは自分だ。小さな男の子がカウンターの向こうにいる事に気づき、笑顔で「いらっしゃい」と頭を下げた。元気をなくしたように、まだ遊び足りないお年頃のはずの少年は頭を下げただけ。
いったいどうしたのだろう。父の手にある懐中時計は、保護のためのケースに抜き穴があり、中の文字盤が見える形になったハンターケースと呼ばれるタイプの懐中時計だ。
抜き穴に嵌められていたのだろうガラスは見るも無残に砕け、小さな欠片までほぼ全て、布の上に散らばっている。ケースも、時間調節用のネジの周辺も大きく変形していて、とてもではないが買い直すほうが安いだろうというのは、リックから見ても一目瞭然だった。
けれど安易に口に出すのは、客なのだろう少年の気をさらに落ち込ませてしまうだけだろう。
「どう思う?」
思うのに、この父ときたら。
渋々覗き込み、やはり壊れ方に唸ってしまう。
「――ここまで変形しているとなると、よほど大きな力を加えられたんでしょう。正直修理するにも、完全に復元できるか」
ガラス窓が割れ、外蓋もそもそもの本体も、これほどまでにひしゃげてしまっていては、少なくともリックの見立てでは他の結論は導き出せないのだ。明らかに歯車にも影響を与えているのは目に見えているし、その影響すらも軽症程度とは程遠い。
父も渋面を見せて頷いている。
「そうだろうな。よほど優れた職人であれば、話は別だろうが……」
「そ、そんな……ここなら絶対直るって聞いたのに……」
弱りきった声。リックは懐中時計をカウンターに置き、台の表に回って少年と目線を合わせた。
やや怯えた目が、おずおずと見返してくる。
「君も怪我をしたら、怪我が治るのに数日かかるだろう?」
少年が頷いている。
「時計も同じなんだ。沢山傷ついたら直すのは大変だよ。それに時計は君のように、自分の力で直るだけの力はない。君が骨折すれば直るだけの時間を、人の手で直すんだ。そんなに簡単に直せるものじゃないから、技術と呼ばれるんだよ」
「で、でもお父さんに怒られちゃうよ……」
そういう事かと、リックは内心溜息で埋まってしまう。懐中時計をもう一度、丁寧に取り上げて少年の目の前に差し出す。
「お父さんが怒るぐらい、大切なものなんだろう。ごまかしたりしたらもっと怒られるのは君だ。持ち主に気づかれないぐらいきれいな修理をするのは、僕ら時計職人にもできないんだよ」
涙をほんのりと浮かべる少年。それでも、リックは首を縦にも横にも振らなかった。
これは受けられない。受けるべきではないと、知っている。
知っているけれど、今首を動かす時ではない。
「必ずお父さんには分かるんだ。お父さんも、君にごまかしてまで直してほしいとは思わないと思うけどな」
「で、でもお父さん怒ったら怖いんだ! お兄ちゃんのお父さんみたいに優しそうじゃないよ!」
目を丸くするリック。しばらく開いた口が塞がらず、口を噤んだ途端に、吹き出すように笑い飛ばしてしまった。男の子は一瞬だけ戸惑って、すぐにまた泣きそうな顔に戻ってしまった。
「わ、笑わないでよ!」
「ご、ごめんな。――そっか。父さんが優しくねぇ……!」
咳払いが後ろから聞こえたが、そう簡単に笑いを治められそうもない。やっと落ち着いて、過去を見るような幼い表情に、優しい顔を向けられた。
「直すだけの努力は僕らもしてみるよ。ただし、それは君がきちんとお父さんに謝ってからだ。いいね?」
「で、でも――」
「お父さんにとって」
すぐに言葉を被せる。一瞬だけ射竦められたように体を強張らせるその小さな姿が、懐かしい。
笑みを作りかける顔を必死で真顔にして、リックはもう一度目線の高さを合わせ直した。
「とっても大事なものなんだろう? 例えば君の大切なものを、同じように壊されて。その事を教えられないままなんて、怒らずにいられる?」
少年は少し考えて、首を振っていた。リックもうんと頷き、肩を優しく叩いて、包んだ。
「ちゃんと謝ろうな。嘘もつかないで、きちんと言うんだ。お父さんが怒るのは大切なものを壊したからじゃない。ものを大切に扱う人になってほしいから、今怒ってくれるんだ。きちんと反省すれば、お父さんも許してくれるよ」
「――うん……ごめ、んなさい……」
怖いだろう、きっと。
――いや、絶対。
怖くないはずがない。それだけ彼にとって、泣くほどに父の姿と言うのは、大きいのだろうから。
――あの子も、そうなのかな
引っ越す前日に時計を持ってきたあの子にとっても、母も祖母も、大切なものだったからこそ。
ここに、預けに来てくれたのだろうか
男の子の背中を優しく叩き、リックは笑った。
「ほら、謝るなら早く行ってこい。男だろ。しっかり謝って、それからもう一度おいで」
「――うん」
服でぐいと顔を拭いた男の子は、傷だらけの手で壊れた懐中時計を布ごと、おっかなびっくり持ち上げて、店の外へと帰っていった。
――どうしても直したかったのだろう。あんなに小さな欠片まで集めて、指を切っただろうに。
男の子の小さな手にいくつも刻まれた証は、とても痛々しくて、必死なように見えた。
あの子は十分、分かっている。
ただ、やり方が分からなかっただけだ。
「――リック」
声をかけられ、父へと振り返る。申し訳ない思いが先に立って、思わず頬を掻いた。
「すみません、父さん」
「いや。――それがお前なりの答えか」
「はい」
「そうか」
ただ、それだけ。必要以上を言わないのは、知っている。
だから自分も、必要な事だけを伝える。それだけだ。
申し訳なくても、それを父は受け入れてくれた。その気持ちをきちんと汲むのも、父なりの教え方のはずだから。
「先ほどお前にお客様が来ていたぞ。また後日いらっしゃるそうだ。きちんと準備しておけ」
ぽかんとしたリックの頭を、まだまだ彼より大きな父の手が、不器用に乗せられた。
目を見開いて、照れくさくなって。顔が綻ぶ前に引き締めようとして、自分でも笑えるほどに失敗したその表情を見た父は、肩が笑っていた。
鈴の音が、響く。生まれてからずっと聞いてきた音が、リックに来客を告げていた。流してしまってはいけなかったのに、思わず頭は思い出に浸っていて。手の平の時計を見て、あの日の事が随分とおぼろげな自分に感慨に耽っていた。
そんな歳というわけでもないのに。まったく、父の癖が写ったのだろうか。
「あ、の……すみません」
「え? あっ、いらっしゃい」
慌てて顔を上げ、手元に持ってきていたものをそっと、カウンターの下の引き出し式テーブルにしまいこもうとした。
懐中時計が古馴染みの板を叩くより僅かに早く、リックの手が止まる。
黒髪に黒い瞳。日系イギリス人らしい、十四歳頃の少女。
あの時と変わらない、おどおどとした雰囲気を見せて。
あの時と変わらない幼さを瞳に映して、あの時よりも女性になった表情。あの時以上に、はにかむような笑顔。
目を見開いた。言葉が出ない。
もじもじとした様子でこそばゆそうに笑う少女は、七年前より確かに落ち着きを覚えて頭を下げてきた。
リックも思わず、照れくさくなりつつも笑みが広がる。
「いらっしゃい。今日はどのようなご用件でしょうか?」
平成23年10月頃 執筆
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