さよなら。
そう言って、お前は花が綻ぶように笑った。
始めて出会ってから今日まで変わることの無い、柔らかな笑顔。
俺は、その笑顔に幾度となく救われ、失いたくないと感じていたことを、今この瞬間痛感する。
* * *
安っぽいのティーバッグでい淹れた紅茶の香りが鼻腔を擽る。
暖かな湯気の向こう、テーブルを挟んだ向のソファーに腰かけた名前がカップをソーサーに置いた。
そして、そっと俺を見つめる。
長い睫毛に縁られた瞳は室内の照明の下できらきらと輝いていた。じっと眺めれば、繋がった視線を断つように伏せられた。
『大好き。大好きよ、亮。愛していたの……誰よりも』
長い髪を右手で軽く整えながら、名前が言う。形の良い唇が紡ぐ俺の名は、なんだか懐しい響きを孕んでいて、俺はその理由をぼんやりと考える。
なぜ、こんなにも懐かしいのだろう。あんなに、沢山呼んでいたのに。以前だって……以前とは、いつのことだ……?
そういえば、最近は名前を呼ばれていなかった。そうか、久しぶりだから懐かしいのか。
なるほど、そういうことか。頭の中で自己完結し、頷く俺を名前は見つめ、優しく微笑む。
「なんだ、突然。そんなことを言いにわざわざ来たのか」
『そうよ』
静かに告げられた言葉に、僅かに目を見開く。
相変わらず優しい笑みをたたえ、名前は俺を見ている。
なぜ、名前はそんなことを言うのだろう。まるで過去を覗き込んでいるような、そんな顔だ。
「なぜ、突然」
『……そろそろかなって』
「なんのことだ」
名前が立ち上がる。
スリッパを鳴らしながら、俺の前に立つと、まっすぐ目を見つめ、目元を歪ませた。
微かに指先を震わせて、俺の頬に触れる。触れた指は白魚のように美しかった。
『もう、おしまいにしようか』
「は……?」
おしまい?なにを。何を終わらせると言うんだ。
なぜそんな顔をする。なぜ、そんな苦しそうな顔をして俺を見る。なぜ、なぜ。
『終わりにしよう、私たち。別れましょう』
「…………」
頭を殴られたような気分だった。
別れる……名前と、別れる。わからない、どうしてそのような選択をするのか。
「……理由を、教えてくれないか」
『…………我慢できないの。つらいの』
するり。
名前の腕が俺の首に巻き付く。甘い空気が俺をふわりと包む。
ぎゅうと締め付ける細い腕は儚げだ。いつだってこの細い腕に支えられてきたから、背中に食い込む指先が酷く落ち着く。
『私、ずっと我慢してた。あなたのこと、わかろうと頑張ってた。でも、もう無理。もう、あたなたのこと、わからない』
ぽつぽつと名前が語りだす。触れ合った肩口が熱い。染みを作るのは、きっと透明な涙。
『あなたは変わってしまった。もう、以前の優しいあなたはいないの」
……ああ、そうか。そういう、ことか。
俺が変わってしまったから、名前は泣いるのか。いつかの俺を、見ているのか。
『私はここまで。ここから先は、一緒に行けない』
顔を離し、涙に濡れた唇を俺のそれと一瞬だけ重ね、柔らかく微笑んだ。
『だから……』
さよなら。
* * *
名前の居なくなった部屋。すっかり覚めたカップを眺め、息を吐く。
一方的な別れの言葉の前に、俺は何も言えなかった。俺が言い返す前に、名前は去ってしまった。残されたのは、名前の残り香りだけだ。
不思議と涙は出てこなかった。なぜだろうか、わからない。
涙は出ないのに、大きな喪失感ばかりが俺を襲う。
襲い来る喪失感に対して、一向に涙を帯びない瞳に、言葉にできない感覚がこみ上げた。
引き止めることもしなかった自分に嫌気がさす。じわじわと侵食し始めた後悔の念に、涙の代わりに深く息をこぼした。